「公共」とメディア・リテラシー

高校公民


あらゆる情報をネット空間で受け取り、発信する時代。若者たちにとっては、もはやテレビや新聞といった旧来のメディアを意識する機会さえ少なくなっているのかもしれません。今回は、カナダで生まれ、日本でも発展してきた「メディア・リテラシー」という概念の歩みをたどりながら、情報環境がますます複雑化する現代において、若者たちにどのような力が求められるのか、「公共」情報分野の執筆者である村田麻里子先生(関西大学教授)とともに考えます。

アメリカのトランプ大統領がカナダはアメリカの51州目になるべきだと発言して以来、カナダではアメリカへの警戒心と内部での結束が急速に高まっています。
しかし、トランプの暴挙以前から、カナダはアメリカのすぐ隣というその地理的位置について常に意識的でなければならなかった歴史があります。若者のメディア教育の方法論がカナダで発達したのは、ほかでもないこの条件に起因していました。

「メディア・リテラシー」という言葉は、カナダのオンタリオ州にそのルーツがあります。

1980年代、ハリウッドの映像やアメリカの音楽産業コンテンツ(ミュージックビデオやプロモーションビデオ)における性的・暴力的で刺激の強い映像表現が、若者たちを虜にしました。
同じ英語圏であり地理的に地続きであるカナダには、当然それらのコンテンツが国境を越えて凄まじい勢いで流れ込み、高校の教師たちを怖がらせました。

教師たちは、メディアの世界は発信者によって明確な意図をもってつくられたものものであり(これを「メディアは構成されている」という)、それを理解したうえで接するべきだと高校生に教え始めました。メディア・テクストは「誰によって」「どのように」構成されているのか、そこにはどのような資本が絡み、結果としてどのようなメッセージを発しているのかを、受け手の一人ひとりが分析できるようにすることを目指したのです。

この教育実践はやがてオンタリオ州の教育カリキュラムに取り込まれ、ほぼすべての学年に国語と同等のものとして教えるものになりました。


 



メディアの海で泳ぎ続けたい私たち


しかし、「どのようにしたらフェイクニュースを見破れるのか」といった、メディア・テクストの真偽というメッセージレベルについて心配する時代はあっという間に過ぎ去り、ふと気が付けば、ネットの引き起こすフィルターバブル現象やアルゴリズムの存在といったネットのアーキテクチャ(基本設計、仕様、論理構造)そのものを理解する必要性に議論が割かれるようになっています。

今のインターネットは、利用者が、自らのふるまいを一定の方向へと導く「コード」(ローレンス・レッシグ※1)の存在について知りながらも、なお喜んでそこに身をゆだねるようなメディアに「進化」しました。

自分にカスタマイズされた情報に接するごとに精度があがる心地よさや、AIに質問を突っ込んで解を導き出してもらえる利便性を、もはやネットにつながる誰もが最大限に享受しています。

筆者は「公共」の教科書で「誰が水を発見したかはわからないが、それは魚でないことは確かだ」というマーシャル・マクルーハンの言葉を紹介しましたが、おそらく私たちは生かされている水(=メディア環境)を自覚できない魚ではありません。そうではなく、うっすらと気づいていながらも、GAFAMのプラットフォーム資本主義の海でいつまでも泳ぎ続けることを望んでいるのです。そして、ひとたび水から出ると死んでしまうのです。

水の中にいるために、多くの人はデバイスを片時も離しません。ともに寝て、食事をして、人によってはお風呂も一緒に入ります。いや、その気になれば鞄にしまえるスマートフォンならいざ知らず、時計の形で肌に直接ぴたりと触れているメディアに頼らないというほうが無理でしょう。


※1  Lawrence Lessig(1961年~)はアメリカの法学者。専門は憲法学・サイバー法学。ネットのアーキテクチャ、すなわちコードこそが利用者のふるまいを規制・管理することを指摘した。

最近では、インフォーメーション・ヘルス(情報的健康)のために、メディアから意識的に離れようという動きがあります。
オーストラリアででは、16歳未満のSNS利用を禁止する法案が国会に提出され、可決されました。これは、有害情報から子どもを守るためにノー・テレビデーを設けたり携帯電話を取り上げることを推奨する、かつての保守的なメディア・リテラシー観とは位相の異なる次元の話です。それは、もはや脳の発育や人体への影響という、酒やたばこと同じレベルの議論なのです。

法律化の良し悪しや有効性はさておき、メディアから適度に距離を置く感覚を身に着けることは、デバイスがここまで肌に密着してしまうと、確かに必要です。しかし、それでも身体から引き剝がすことが実際には限りなく困難だからこそ、むしろこれまで以上に密着を前提としたメディア・リテラシーは必要になってきます。


民主主義の前提として

ここまでみてきたように、現在必要なのは、ネットのアーキテクチャ、とりわけプラットフォーム資本主義に対する理解と意識の醸成であることは間違いありません。しかし、そうしたプラットフォーム上で行き交う、メディア・テクストとそのメッセージという旧来のメディア・リテラシーが焦点化していた情報の階層を分析できる能力は、実はこれまで以上に重要になっています。

というのも、ネットの中ではマスメディアはもはやマスメディアではなく、ただの「コンテンツ」となり、それらがシームレスかつフラットに並置された状態にあるからです。

筆者は大学教員として、大学生はもちろん、入試面接やサマーキャンパス等で高校生とも接するのですが、彼らのメディア観の急速な変化に驚かされます。
かつてインターネットの存在は、マスメディアに対抗できるオルタナティヴの登場を意味していました。しかし、今の彼(女)らには、そのようなメディアの構図は存在しません。それどころか、テレビも新聞もラジオも、はるか彼方に、ぼんやりとかすんでみえるメディアとなっており、それらのコンテンツがインターネットの中に溶け込んでいることへの意識も希薄です。

たとえば、筆者は、毎年入学したての大学1年生のクラスで、身近なメディア現象について発表するという課題を課しています。学生たちの切り取ってくる現象はメディアの最前線であり、毎年やっていると、その移り変わりの激しさを実感することができます。

先日、発表の順番があとになるにつれネタにつきた学生たちが、テレビやラジオや新聞というメディアについて一生懸命「ネットで」調べて発表してくれました。偶然、新聞もラジオも災害時には役に立つからなくならないほうがいい、という趣旨の発表が続いたのですが、これは逆説的に、これらがいかに非常時にしか彼らにとって「必要のない」メディアであるかを物語っています。そして、ネットの中で自分が新聞社の提供する情報の断片を日々読んでいることと、紙の新聞の発行者は、まったく結びついていないのです。

このような中で、ネットのアーキテクチャについて学ぶだけでは、ネット上のメディア・テクストが、どのような立ち位置や政治的指向のものであるのか、そこにどのような思想性の違いがあるのかなどを読み解くことはできません。
むしろ、プラットフォーム上に等価に並置されるメディアの性質の違い、テクストの意図やメッセージの違い、そしてその背後にある資本について、これまで以上に意識的に腑分けしていく能力が、今後求められているといえます。

SNSやAIの浸透がもたらす未来に警鐘を鳴らす法学者のキャス・サンスティーン※2や、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ※3が指摘するように、民主主義の根幹は、結局は自分以外の意見や価値観ときちんと対話できることにあります。
プラットフォーム上の情報から誰かの意図を読み解いたり、さまざまな意見や価値観のせめぎあいを理解したりできることは、そうした対話の「前提」であり、まさに「公共」が目指していることそのものです。すべてのメディアがネットの中に溶け出し、シームレスに私たちの身体に密着する時代、メディア・リテラシーは、「公共」にとって何よりも大切な能力になったといえるでしょう。


※2 Cass R. Sunstein(1954年〜)はアメリカの法学者。専門は憲法学、行政法、環境法。インターネットにおける言論の自由が、ネットが高度化するにつれ、民主主義に対する脅威となりうることを指摘した。

※3 Yuval Noah Harari(1976年〜)はイスラエルの歴史学者。『NEXUS 情報の人類史』では、AIの進化が人類史にもたらすまったく新しい危機について論じた。

 


 





●村田 麻里子
(むらた まりこ)



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