「漢字仮名交じりの書」の作品制作 
ー主体的な学習をめざすためにー
小山一則(新潟市立高志高等学校教諭)
はじめに
 新学習指導要領に基づき教科書の一新を見た。何のこだわりもなく、自然なまま筆を持ち、自らの手で制作するよろこびを生徒に持たせることができると感じた。教科書冒頭の「漢字仮名交じりの書」の学習。ここに主体的に学習する書道教育をうかがうことができた。


生徒の立場に立って
 われわれは書作の時、一瞬にして、文字の大小・墨の濃淡・潤渇などを総合的に考え表現しようとする。いくつかの試行錯誤ののち完成へと導く、この一連のことを一つ一つ分析・解体し、生徒に提示したなら作品を作れるのではと考えた。われわれにとっては何げないことも生徒たちには難解なことなのであると。
 ここに示した作品は私が本校に赴任以来、もっともよくできた生徒作品と思っている。(後に作者の草稿とともに再掲)


完成作品
(135×35cm)


草稿
 生徒にいわゆる三過折、特に起筆の際、うち入れた筆先をつき起こす作業を徹底させた。(書作品が良ければ、こんなことはどうでもいいことなのであるが。)点を書く。大きい点から小さい点へと移行する。線を引く。太い線から細い線へ。といった具合。指導者は教材のプリントを作成し、生徒は容易な学習プリントを見、書きあげた後、指導者の合格をもらうと、少しずつ難解になるプリントを学習するのである。
 「漢字仮名交じりの書」の大きな障害、文字通り漢字と仮名の融合。この問題に関してここに示した作品をどうご覧なられるだろうか。私自身何の問題もなく表現されていると思っている。問題がないとするならば、私が生徒に示したことはまんざら間違いではなかったと思う。
 仮名は小学校一年の時に習う平仮名を書くのではなく、点と線を書くことだと指導する。点と直線・曲線で構成されている。後に示すが、生徒はいろんな発想で作品を作る。いろんな詩をさがし、暗闇の中、手さぐりで書いていくのである。授業中、生徒から相談を受け、おたがい考えながら完成へと向かうのである。生徒は主体的に取り組み、自分自身の作品を制作することになる。傍らに絶対的に正しいと思わせられている古典とは違うお手本を置いて見、受動的な学習とは異なる時間だと認識する。
 ここでプリントを示したい。「漢字仮名交じりの書」学習で最初に配るプリントである。若干にじみやすい半紙に太さ八ミリ長さ四十ミリの筆を使用し、まず点を書く。前述のごとく起筆の際うち入れた筆先をつき起こす作業をする。そんな状態でできた点を大きなものから小さなものへと確かめるように書く。私はこの作業さえできれば「漢字仮名交じり書」は書けると言う。次にそんな状態から線を引く。そして、二本線をつないで書くことを指示する。

突くように(1)


(2)
 この作業中、点二つたてにそろえれば“こ”という平がなになる。横にならべば“い”と読める。などと話しかける。この一枚の作業を終了した生徒には次のプリントを提示する。
 ご覧のとおり、(1)を文字に変えたものである。けっして、このプリントをお手本として使うわけではなく、筆を突く作業に専念することに重点を置くのみである。ついでに“が”にしろ“ら”にしろ、点と直線と曲線で構成されているにすぎないと説明する。
 生徒は時に墨継ぎはするが、そして筆先を硯でそろえようとするが、それは自由にさせる。指導の内容はなるべく少なくする。

(3)


(4)
 次に(3)は「いちめんなのはな」を三回、墨継ぎをすることなく書く。少々ハードルを高くする。どのくらいの墨量で潤渇が効果的に出るかということになる。
 点・線・文字そして潤渇といった具合、このへんにくると生徒は気楽な雰囲気から辛そうな表情に変わる。
 墨量と文字の太細を同時に考える。当然、途中で硯に筆は触れさせない。

(5)
 八木重吉の詩を(4)と(5)にわけていままでの学習をふまえて書く。少々容易な内容である。
 (4)は『あきになるとなにもかもわすれてしまって』、(5)は『うっとりとみのってゆくらしい』である。プリントはこれで修了。
 いままでの学習のまとめとして画仙紙(夾宣)1/4ほぼ正方形の紙に八木重吉の詩を書く。しかし、本来の詩は『あきになるとくだものはなにもかもわすれてしまって…』である。その不足分を補って墨継ぎは、(5)のうっとりの“う”でするとする。
 前にも述べたが、三過折による表現・墨継ぎは一度だけなどという指導はどうでもいいことであるが、一つのよりどころとしてこのようなことをさせる。生徒は、この段階にくると自主的に自分なりの表現を試みる。不安なまま手さぐり状態で作品を作る。時には「まっ白な雪の上に足跡をつけるように一字一字置いていったら」とか、「鉄斎の書のように石垣の石を一つ一つ積みあげるように書いたら」と。また、裾野の文字の大きさに風信帖を例に出したりする。時に教科書を開き、古典に接するようにする。これで「規定」は修了。作品は下のとおりである。
 「自由」は好きな詩・文章を表現する。「規定」をふまえ制作する。
 下の作品、渋谷定輔の詩「ただの百姓」である。

                           35×135cm
きみ/きみはおれを詩人だなんていうが/おれは決して そんな特殊な人間じゃないよ/ただの百姓だ/ただの百姓小作人青年だ/それゆえ日本の詩壇がどうなろうと/世界の詩壇がどうなろうと/おれはいっこう無関係/きらびやかな文明人がわすれはててる/暗黒なこの大地の底に/しっかり両足をくっつけて/あらゆる人間の生産のなかで/もっとも高貴な生産に従事して〈真実なる人間〉への道をまっしぐらに進む/純粋な百姓青年だ
 この詩を書にした生徒はこの詩に感動し、この本を求めようとしたが、もはや絶版となっており大変残念がったと言う。後日、図書館の先生方からその話を聞き、図書館とこの授業のかかわりについて話し合ったことを覚えている。書に書かれている詩や文章に感動すれば、それでいいという訳ではないが、それらを書くことは制作する意欲をかりたてる。この詩を選んで書いた生徒になんらかの変化があったのであろうと思う。
むすび
 自分の字で制作する。技術的に必要とするものはさほどなく、しかしながら完成させた満足感が持てるようであり、書に対し多少なりとも自信を持つ。できることなら、主体的な人生を送ってほしいと期待する。

※本稿は、「第31回全日本高等学校書道教育研究会大阪大会分科会」で小山先生が発表されたご実践です。


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