文字・書は学習の基本
―丁寧に書くことの意味―

樋口 丈治(福島県立喜多方東高等学校)

一、はじめに
 今日のわが国の書道教育、文字教育の現状は、危機的状況にある。これは、文字を大事にするという日本古来の伝統をここ半世紀前ほどから忘れてしまった結果である。確かに文字は意思伝達の記号ではあるが、単なる記号ではなく、書いた人の個性、感情も表現される。
 中国では文字に「霊」があるとして粗末に扱うことはしなかった。もし誤って踏みつけたりすると二拝九拝して謝る風習があった。わが国でも机に腰をかけることを禁じてきた。机は文字を書く所、勉強する所だから机上は神聖な場とされてきた。そのくらい文字に思いを込めて大切にしてきた。しかし今日の状況は、家庭での教育力低下、学校での指導力低下から文字を尊重する伝統が薄れ、結果として文字の乱れや漢字嫌いが増え、書くことができない青少年が増加してきた。更に憂うべきことに、指導者の立場にありながら、でたらめ筆順(筆順がでたらめだと字形は整わない)で下手な字を書き、果ては誤字脱字が目立つ先生が少なくない。先生ですらこのような状況であるから教えられるものは推して知るべしである。
 書道教育とは文字を正しく書くことから始まり、個性や感性を磨くことができる芸術である。書を通して文字を知り、文字を尊んで書の表現を楽しむ。そして、書を通して人と文化交流も盛んにする。このような状況が理想である。

二、書道教育の現状
 小中高すべてにおいて書道の授業が潤沢であるとは言いがたい。第一、指導者が少なく、いるとしても専門的に指導できる先生が絶対的に不足しているのである。
 また、授業が受験体制に走ることを否定はしないが、受験科目でない書写書道の時間が英数国に当てられているのは問題である。確かに「日本の伝統文化である書道は教育上大事なものだ」と、どなたもおっしゃるが、実際どのように教育課程に組み入れていくかとなると、手をこまねいているのが現状である。
 書道は、高尚な芸術であり、教育的にも大変重要な要素がたくさんあり、古来、人間形成、社会良風の近道であるといわれている。以下にその主な理由を列挙し考察してみたい。なお、本稿では毛筆に限定せず、万年筆やボールペンも含む箇所があることをご了解いただきたい。

三、書教育による人間形成
1.毛筆は、文字を正しく書こうという気持ちにさせ、より一層文字、書が理解でき、表現する喜びや、生涯芸術学習のきっかけともなる。
 書は、基本的に白と黒の世界であるから、騒がしい気持ちを収め、安らぎを生む。書を幼い頃からやっている子供は落ち着きがあり素直な子供が多い。それは柔らかな毛筆でしっかり書くことで自己が確立されるからである。この体験は尊く自信に繋がっていく。また、毛筆で学習する意味は、字形がよく理解できること、疲れないこと、そして、表現する喜びがあることである。ひいては生涯に亘って楽しみ、学ぶことができる。

2.鑑賞と臨書で高尚な気分になり、ストレス解消になる
 毛筆の柔軟性と和紙の微かな感触は、素晴らしく、独特である。筆、墨、紙の種類によってもそれぞれ異なった感触がある。次々に生み出される変化ある筆線に集中できて、書いている間は、心に抱える「悲しみ、悩み、不安等々、日常のストレス」の全てを忘れて没頭することができる「忘れて書く」ことほど楽しいことはなく疲弊した心を癒す効果がある。一時間書けば、スッキリした気分になり新たな生命の活力を生む。三十分でも二十分でもそれは可能である。これこそ書道の一番の目的である。古今の素晴らしい名跡を鑑賞するだけでも高尚な気分に浸ることができる。ましてそれを臨書したり創作したりすれば何をかいわんやである「名人の書跡を左に置いてそれを鑑賞しながら右に書写する」―このことは書を学習する上で非常に大事なことである。これを書禅とも書の瞑想とも言う。江戸時代の良寛様は「手元の書くほうは見ないで手本だけをみて書いた」という逸話も残っている。
 幼児期からこのように書の体験をさせると、よく落ち着いた素直な子供に成長するという例は枚挙に暇がない。
 また、ある高校の特別指導では、謹慎中の生徒に習字を何十枚も書かせているというが、効果的な要領のよい指導法である。継続して指導すれば落ち着いた生活を取り戻すことができるであろう。

3.集中力と観察力が養われる
 右記Aの練習を定期的に行えば、当然の結果として集中力が導き出される。手本を観察し、自分の書いたものと見比べ、作品の至らない点を検証することで観察力も同時に養成される。

4.日頃も落ち着いて丁寧に書く習慣ができる
 日頃、鉛筆、ボールペン、万年筆などで書く場合でも、丁寧に書く習慣がつく。書はつまるところ生活の中で生き、生かされる身近な存在で、誰もが楽しめるものなのである。ペン文字でも美しい筆跡を見るとさわやかな気分を与えてくれる。

5.教育指導者は児童、生徒のペン文字や書の変化を見て指導することが望ましい
 文字の変化は心の変化であるからよく観察して指導することが大切である。心が荒れているときは必ず文字は乱れるし、安定している時はしっかりした字を書く。丁寧にしっかりした書き方をさせる指導と同時に、指導者は児童、生徒の文字の変化を読みとりどう指導していくかが大事である。

6.書のコンクールを行い励ます
 児童生徒を励ますことは大切である。書は努力と練習によって、際限なく伸びる。コンクール等の機会を児童生徒に与えることは、目標を持たせる意味で有効である。賞に入らない作品は丁寧に指導し、次回で頑張るよう、気軽に楽しめるようにしたいものである。現状では、各種民間団体が書初め展、七夕展などを盛んに行っているが、鳥取県などでは県教育委員会が主催して小中高のジュニア県展を毎年行って成果をあげている。これを国レベルで行えばまた効果は格別であろう。

7.文字を正しく美しく書くことは全ての学習の基本
 手で文字を書くことは、脳を発達させる。パソコン、携帯のデジタル文字に全てを依存するなら、筆順、字形、筆圧、バランス、個性、などは一切分からず、美的感性などは育たない。むろん、デジタル入力を否定するものではない。只、手を使うことを先にして、しっかり覚えさせておくことが大事である。老いてボケないためにも文字は書かないといけない。

8.受験体制の中での芸術教育の大切さ
 受験科目の勉強には、誰もが真剣に取り組むであろう。しかしそれ以外の科目は遊びであるからやらなくても良いというものではない。車の通る幅だけあれば車は通れるがこれでは危険極まりない。車幅に余裕がなければ安心して運転はできない。
 A君という高校生がいた。彼は書が好きで高校でも習っていた。数学も好きだった。数学の問題を解いていて分からなくなると、そこで一旦止めて、半紙を広げて書の練習をするという。その後また同じ数学の問題を解くと今度は、簡単に解ける―この経験は何度もしたという。彼は受験にも難なく成功し、見事、東北大学に合格した。また、ある進学校の生徒は「高校に芸術(書)と体育があったおかけで、私はどれだけ救われたか分からない」と感想をのべている。
 このように、受験に必要のない教科だから不要という考えは、成り立たない。進学校といえども、みな芸術教科があるからこそ実績を上げているのである。特に書道は落ち着く芸術であることを実感していただきたい。

四.終わりに
 長い伝統の中で培われてきた書の練習方法や作品制作過程には、自己形成に有効な内容がぎっしり詰まっている。文字は特定の職業人のものではなく、国民すべての共有財産で文化の根幹、学習の基礎である。書の教育を軽視したアメリカの占領政策は現在まで(各県に指導主事がいなかったり、書道教員を採らなかったりなど)影響を与えている。
 書道は人間教育、芸術教育であり、その効用ははかり知れない。パソコン、携帯による文字入力は時勢であるが書の教育、文字教育とバランスよく行うことが大事である。今、中国でも書道教育の必要性を再認識し、本腰をいれてきている。中国では文化人と呼ばれるには達筆であることが重要な条件となっている。
 本来ならば、教育委員会には書道専門の委員がいて、各校の実態を分析し、児童生徒の文字・書を正しく美しく書く習慣・環境をよく整えてやれば、児童生徒は更に良い変化をしてくるであろう。また、書写書道の授業でも非常勤講師や時間講師ではなく、職員会議に出席できる専門の教諭を置き、生徒が書く文字・書的環境について会議で発言し、改善していって欲しいのである。
 わが国には、優れた自然を背景にし、古来、素晴らしい教育力がある。先人は科学者であろうと医学者であろうと政治家であろうと、皆立派な書、字を書いている。当時の生徒達も今の生徒とは比較にならないほど、高い文章能力を持ち、書がうまかった。
 どうか、これから書かせる教育を充実させることで、十年、二十年後に全体の質が向上し、世のため、人のためになる真の文化人が育成されるよう、念願する。

(二〇〇五年二月)



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