漢字仮名交じり文には古典の持つ力が必要
兵庫県神戸市立葺合高等学校教諭 牛丸 好一
 近年、重要視されている漢字仮名交じり文について考えている。読める。わかりやすい。現代人に理解され
やすい。という作品が私たちが古典としている作品のなかにあるだろうか。
 なぜ古典のなかに求めようとするのかという理由は、書道が芸術科に属する教科だからである。革新、前衛、新しいという名がついていた作品も古典の形や精神が作品のなかに存在していなければ芸術作品とは認めがたい。
 現代の漢字仮名交じり文の古典として良寛の手紙をあげたい。良寛は、王羲之の法帖や懐素の自叙帖、千字文、伝小野道風の秋萩帖を学び、自己の書風を確立した。変体仮名交じりであるが当時の物として読みやすく格調がある。書に前記の古典の線が感じ取られ新鮮な造形が古典の裏付けの上に生み出されている。決して我流でも自己流でもない。当時手に入る書の漢字古典(王羲之や懐素の作品)と草仮名の秋萩帖を学んだ上でその二つを組み合わせて自分の書を作っている。そのなかには、現在の漢字仮名交じり文の古典とよぶに相応しい作品がある。
 明治になると楊守敬が多くの碑法帖を携えて来日してきた。日下部鳴鶴、巌谷一六、松田雪柯などが楊守敬に直接筆法や碑帖のことなどを学んだ。日下部鳴鶴は北魏の鄭道昭の書に感動し楊守敬から拓本を借りて複製を作り印刷にする。
 日本の書家もたくさん中国に渡る。中林梧竹、山本竟山などは中国で書を学びやはり鄭道昭の書を好んだ。
 中国との交流が進むにつれ、北碑の拓本がたくさん入ってくる。中国は北碑を学ぶ碑学派の書が盛んであった。日本でも碑学派に学ぶ書家が多く出て、鄭道昭の書は大流行した。しかしこの北碑の書と仮名を結び付ける書家はいなかった。
 北碑と仮名を結びつけたのは、中村不折と河東碧梧桐である。漢字仮名交じり文の研究で中村不折と河東碧梧桐の存在は重要である。
 中村不折は洋画家で、帝国美術院会員にまでなった大家だが、書家としても名をなす。フランス留学時に龍門二十品と書譜の拓本を持っていき、昼は絵を学び、よるは持参の碑帖を臨書し書道に力を入れた。帰国後洋画家として大成するが書道は続ける。碑法帖の収集にはさらに力を入れた。そして書道博物館まで作った。その中村不折に書を学んだのが河東碧梧桐である。
 不折は正岡子規に傾倒し、住居を子規のそばに移した。碧梧桐は俳句で子規の高弟であったので子規のもとで不折と出会う。もともと碧梧桐は書が好きで穏やかでうまい書を書いた。それが不折に六朝書の拓本を見せてもらい感動する。

中村不折「七體いろは」
 碧梧桐が浅虫温泉に滞在していた時、不折から北魏の中岳霊廟碑と東晋の爨宝子碑の拓本を送られる。その書に深く感動した碧梧桐は猛烈に臨書しそして自分の書風をすべてこの書風に変えた。そして不折を師として「龍眠会」という書の勉強会を作り全国の俳人に影響を与えた。それは書の芸術観を変えるものであった。この書風の流行に不快をあらわにして非難したのが内藤湖南であった。
 当時の書壇は、碧梧桐を全く無視したが、不折にはその蔵する膨大な書道資料の前に頭が上がらなかった。 
 中村不折と河東碧梧桐の注目すべき点は、六朝碑の書風で仮名を書く。そして不折は「七體いろは」、碧梧桐は「いろは帖」という仮名の手本まで書き出版した。ごつごつした字だが読みやすい。今の漢字仮名交じり文の始まりである。

河東碧梧桐「いろは帖」
 奇異といわれ異端視された二人の書がいまなお輝きを失わず多くの人の心をひきつけている。二人の書の作品の奥には、六朝書という古心が存在しているからである。そして大胆にも、六朝の漢字古典の書法で仮名を書いた。当時の仮名書道が華麗な平安時代の古典に迫っている時期である。
 不折や碧梧桐の漢字仮名交じり文の書が、中国六朝時代の高い精神性を持つ古典を学んだうえにあることを知らずに鑑賞すると、内藤湖南と同じ批判をすることになる。
 戦後、日本の書道が欧米の芸術家に対して強い影響を与えた時期がある。活躍した書家に井上有一がいる。井上の一字書きの作品は世界で高い評価を受けた。一方井上は言葉書きの書にも力を入れる。言葉書きは漢字仮名交じりの書である。
 井上有一に大きな影響を与えたのが抽象画家長谷川三郎である。長谷川は東大文学部美術史学科卒業。卒論は「雪舟研究」。ヨーロッパを旅し抽象絵画に魅せられ自らも抽象作品を制作した。しかし日本の抽象絵画はいかにあるべきかと悩み書道に行き着いた。特に日本の禅僧の書に高い精神性と芸術性を見出し良寛に究極の抽象を見ていた。長谷川三郎は世界の抽象芸術は書道に学ぶだろうといって論を張った。
 長谷川三郎をもっともを理解したのはイサム・ノグチであった。ノグチは長谷川に良寛と白隠の書を見せられその書の精神的高さに感動したのである。
 長谷川の論に最も感銘したのが洋画家の須田剋太であり、井上有一であった。二人とも長谷川の芸術は精神性が高くなければいけない。道元の正法眼蔵に学べという言葉を心に刻んだ。長谷川三郎は理想をもってアメリカに行くが五十一歳でサンフランシスコで客死する。
 井上有一は上田桑鳩に学び異常な量の臨書をする。死ぬ寸前まで顔真卿廟碑を臨書した。井上の破壊的な力のある書に潜むものは顔真卿の力である。須田剋太の奇を恐れぬ書は龍門造像記から出ている。
 心に迫る漢字仮名交じり文には必ず古典の持つ力が必要である。それも形ではない。精神である。筆者の古典に対する思いがなければ、いくら名文を素材にして書いても書の作品としての魅力ある漢字仮名交じりの作品はできないといえる。


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