「哲学対話」先生と生徒が共に考えるアクティブラーニングな授業

「主体的、対話的で深い学び」が文部科学省から新しい教育の指針として示され久しく、言葉としては定着してきた感があります。しかし現場ではその実践に四苦八苦されている先生も多いのではないでしょうか。本稿では「哲学対話」という手法を授業に取り入れ、アクティブラーニングを実践した公民科の先生のレポートをお届けします。

哲学対話と新しい学習指導要領

哲学対話という対話の手法をご存じでしょうか。

哲学対話とは対話の参加者が輪になって問いを出し合い、一緒に考えを深めていくという対話のあり方のことです。近年においては、日本でも哲学対話の実践が普及するようになりました。日本における実践は、アメリカで始まった「子どものための哲学」やフランス発の「哲学カフェ」などが原点とされています[注1]。「哲学カフェ」に参加した方もいらっしゃるのではないでしょうか。

哲学対話の良さは、一人ではなく他者と共に考える点にあります。一人で考えると行き詰まることがしばしばあり、そこで思考を放棄してしまうこともあります。けれども、他者と共に考え合うことは、思考を共有し、視野を広げ、意見を深める効果があります。そして、根本的には他者と共に考え合うことは楽しいものです。

新学習指導要領では「主体的・対話的で深い学び」が重視されています。当然新しく導入される新科目「公共」においても、随所に対話を重視する文言がちりばめられています。たとえば、内容A「公共の扉」では「対話を通して互いの様々な立場を理解し高め合うことのできる社会的な存在であること」「自らの価値観を形成するとともに他者の価値観を尊重することが出来るようになる存在であること」について「理解すること」が一つの目標とされています。

こうした点から、哲学対話は「公共」との親和性が非常に高いと感じています。

大学院では「熟議民主主義」について研究していました。どうすれば教室を熟議の空間に出来るか、現場での思案の中で哲学対話に出会い、その可能性を大いに感じています。

ここからは哲学対話の私の実践事例と実施する際の注意点、そして哲学対話の「公共」における可能性についての考えを紹介したいと思います。

[注1] 堀越耀介(2020)『哲学はこう使う 問題解決に効く哲学思考「超」入門』実業之日本社、P131

哲学対話の授業実践

私は現在、公民科教師として3年目を迎えました。現在の勤務校は2校目です。今回ご紹介する実践は、初任校での取り組みで、科目内ではなく、土曜日に定期的に開講される教養講座的な時間で実施したものです。時間は1コマ80分。参加者は10名程度でした。ちなみに哲学対話の適正な人数は10~15名程度、多くて20名と言われています。

さて、まずは授業冒頭で哲学対話の趣旨やルールを説明します。何のために行うのか、どのように行うのか、対話の目的とルールについての共通理解が対話を促進する土台になります。思考を深めるための知的な環境を整備する上でも、ここは念入りに説明しました。

図1 授業内で提示したスライド(対話のルール)

その後、参加者それぞれに問いを考えてもらい、多数決でその日の問いを決めます。哲学対話では、参加者が考えたい問いをそれぞれ出し合います。本気で考えたいからこそ、参加者が議論に集中するのです。

結果、「死ぬってどういうこと?」、「天然な人に罪はあるのか?」、「なぜ勉強するのか?」など個性あふれる問いが出てきました。ちなみに私の問いは「なぜ働くのか」。最終的に決まったテーマは「死ぬってどういうこと?」でした。

生徒との対話に考えを揺さぶられる

対話が始まります。

まず、私から問いを考えた生徒に「なぜその問いを考えたかったのか」を尋ねました。

曰く、夜寝る前とかに人類とか地球がいずれなくなってしまうのなら勉強する意味がないなと思ってしまって、死がとても怖いなって。保育園の頃からずっとこういうことを考えてしまいます」との回答が。

ここで対話がいったん止まります。間ができてしまいファシリテーターとしては焦りますが、ディベートやディスカッションと異なり、哲学対話においては沈黙が重視されます。それは対話の目的が共に考えることにあり、沈黙は参加者が考えていることを意味するからです。ですから、ファシリテーターは無理に話し合いを促すよりも参加者が考えやすい環境を整備することに注力します。でも経験も浅く中々慣れないものです。

そうこうするうちに参加者がぽつぽつと語り始めます。

「死は確かに怖いものだけど、怖がりすぎずに好きに生きていたい」

「明日死ぬとしたら何がしたい?」

「学校に来て授業を受けていたいかな。もしかしたら死なないかもっていう可能性にかけて、いつも通りの生活をしたいから。もし死ななかったり、地球がなくならなかったりしたら、その後が悲惨になるから」

「そもそも死は突然訪れるものだから準備なんか出来ない、だから悔いのないよう生きていきたい」

こんな風に生徒同士が聞きたいこと、話したいことを互いに語りあいます。哲学対話では、教師も生徒も参加者は対等です。白熱教室などは先生対生徒という構図ですが、哲学対話では参加者同士が自由に問い、語り合う点に特徴があります。

こうして対話が深まっていきましたが、ある生徒の次の問いで対話の空気が一変します。

「死に対して準備できないのはわかる。けど、余命宣告されたらどうかな?」

この問いに対して、私がまず答えたのは「余命宣告されたら死の恐怖が勝ってしまって何も手につかなくなる」というものでした。

けれども、ある生徒はこう答えました。

「余命宣告は残りの人生をどう生きるのか、残りの時間を教えてくれるものだからいいなあって思います」

この問いで私自身の考えが大きく揺さぶられました。

確かにその通りだ。でも、自分の命が燃え尽きるまで没頭できることって何があるんだろう。自分のやりたいことって何だろう。精一杯、後悔のないように生き抜くにはどんなことをしたらいいんだろうか❞

私の人生観が、対話によって大きく変わった瞬間でした。

また、この問いを受けて、ペットの死を思い出した生徒が、死ぬ時期がわかっていたらもっと一緒に過ごしたかったと、後悔の涙を流していました。生徒も、授業者である私自身も、授業で感情をここまで露わにすることはあまりないと思います。それほど対話に集中し、考えを深めることの出来る効果が哲学対話にはあると感じています。

こうして時間はあっという間に過ぎ去り、対話は終了しました。通常の授業ではまとめを提示することが一般的ですが、哲学対話では参加者の考えを深めることが目的なので、結論を出しません。最後に振り返りをして、授業は終了しました。

参加者の振り返りを一部引用します。ここから大いに学びがあったことが読み取れます。

図2 参加者の振り返り

この生徒は、哲学対話自体の意義をメタ的に認知しています。また、他者の意見を聞くうちに、自分自身の考えを相対化し、新たな自分を発見したと言っています。このように複数の意見を交換することで、視野を拡大し、自分が前提としてきた意見を変容させる効果が哲学対話にはあります。また、日頃あまり人前で話さないような生徒も、日頃から悩んでいることを考えるわけですから、かなり積極的に対話に参加します。こうした効果も、対話のルールや趣旨が参加者で共有されることが土台にあります。