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「平和学の父」と呼ばれたヨハン・ガルトゥング氏が2024年2月17日に亡くなりました。93歳でした。「新しい戦前」といわれる日本の現況において、私たちは今、改めてガルトゥング平和学を深く知る必要があるのではないでしょうか。
今回は、1997年から99年まで立命館大学国際関係学部でガルトゥング氏の助手を務め、それ以後、精力的に平和研究を行ってきた藤田明史先生にガルトゥング平和学について解説していただきました。
目次
私はしばしば、私の好きな画家佐伯祐三の傑作『黄色いレストラン』(1928)の小さな複製を眺めながら、次のように自問していることがあります。
大きな扉がわれわれの前に立ちはだかっている。
われわれは扉を開いて新しい社会に入りたい。
しかしそのための鍵は扉の向こう側にしか見つからないとした場合、
われわれはどう行動すれば良いか?
扉を砲弾で破壊すれば、扉の向こう側にある新しい社会も壊れてしまいます。ここで鍵とは創造性のメタファーだと私は考えます。創造性(creativity)は、ガルトゥング平和学におけるキーワードの1つなのです。
(佐伯祐三『黄色いレストラン』1928年)
まず、図1をじっくり見てください。そこには行為者(actors)を2者とした場合の紛争(conflict/コンフリクト)と、その紛争の基本的な結果5つが示されています。
ところで、紛争とは何でしょうか。ガルトゥング平和学における紛争の定義は次の通りです。「紛争とは、行為者の有する目標(goals)間の不両立性(incompatibility)のことである」。
行為者A1、A2は自身の目標を達成するために行動しますが、2者の目標は両立できないため矛盾(contradiction)が発生します。この矛盾によって、行為者の行動には多様な可能性が生まれます。こうした一連の過程を紛争転換(conflict transformation)と呼びます。
注意を1つ。日本語で「紛争」というと武力紛争のイメージがどうしても付きまといます。しかしその定義から、紛争それ自体には暴力的な要素は何ら含まれていません。むしろ紛争は人間発達のチャンスなのです。この点の理解は決定的に重要です。
以上の紛争の概念を念頭に、次の3つの練習問題(ガルトゥングの著作より、ただし表現は簡略化)に解答してみてください―今度は迅速に!
問題 ①
テーブルの上にオレンジが1つ。そこに2人の子どもがやって来る。さて、何が起こる?
問題 ②
43歳の母親と18歳の娘。母親は娘を育てるのに人生の重要なゴールを2つ教えてきた。他者に「思いやり」があること、そして、自分に「正直」であること。
母親は25年前に高校を卒業し、今日は同窓会がある。鮮やかな赤いドレスを着たいのだけれど、少しピッタリしていて、スカートが少し短い感じがする。娘は25年前の彼女と同年齢で、とてもきれいに見える。母親は赤いドレスを着、娘の部屋をノックして入室する。そして、「どう思う?」と聞く。娘は返答に窮する。さて、娘へのあなたのアドバイスは?
問題 ③
気温や雨量の変動による河川の分水界の変化に起因して、周囲500㎢の地域における2国間の国境紛争は、1941年以来3度の戦争を引き起こしてきた。1998年にそれはきわめて簡単に解決された。さて、どんな方法によって?
ガルトゥング平和学には、平和の2つの定義があります。
1 平和とは、あらゆる種類の暴力の不在ないし低減である。
2 平和とは、共感・非暴力・創造性による紛争の転換である。
1は暴力(violence)の概念に基づき、2は紛争の概念に基づく平和の定義です。
ここではまず、定義1の基礎をなす暴力について説明します。暴力の定義は次のようです。
「暴力とは、潜在的なものと現実にあるものとの間の差異の原因である」。
ここから、ガルトゥングの独創である暴力概念の拡張が行われます。意図して行使される身体的危害などの「直接的暴力」に加え、社会の構造にビルト・インされた差別や抑圧などの「構造的暴力」、さらには直接的暴力および構造的暴力を正当化する文化のさまざまな側面を意味する「文化的暴力」が付加されます。
これらはバラバラにあるのではなく、相互に関連し、「暴力の三角形」と表現されます。定義1における「あらゆる種類の暴力」とは、暴力の3形態のすべてを包含します。
これに対応して、暴力の否定である平和にも直接的・構造的・文化的平和の3形態があり、「平和の三角形」と表現されます。
定義2は、紛争転換の過程において「平和をつくり出す行為者の能力」に焦点を当てた平和の定義だといえるでしょう。
ところで、これら2つの平和の定義はどう関係しているのでしょうか。実は、2つの平和は同じものであると見なす(identify)ことの中にガルトゥング平和学の精緻な体系(そのあらゆる可能性)が成立するのです。
立命館大学国際平和ミュージアムでの講演会の様子(2008年)。左はガルトゥング氏のパートナーであり国際政治学者の西村文子さん。
図2を見てください。これは、ガルトゥングの平和のイメージに私が2つの曲線軌道を書き加えたものです。そこには、暴力に起因する苦痛(S:suffering)を回避しようとし、目標の達成(F:fulfilment)を追求する2者の行為者XとYの運動が表現されています。
行為者の運動は、F>Sのとき上昇し、F<Sのとき下降するとします。
XとYの関係は、①どちらも上昇または下降するという両者が同方向に動く場合、②どちらか一方は上昇するが他方は下降するという両者が逆方向に動く場合、の2通りがあります。
図2の原点は、F=S(F-S=0)、すなわち目標の達成によって苦痛の回避が可能になった状態という意味において、消極的平和(negative peace)を表しています。
原点の消極的平和を起点にして、XとYとの関係はどのような軌道の上を動くでしょうか。
1つの可能性は、第Ⅰ象限(染色部分)が表現する積極的平和(positive peace)の方向へ。そこではXとYの両者ともに上昇します。理想は、衡平(equity)の関係を保持しつつ両者ともが相互確証至福(MAB)※を目指す直線の軌道上を進むことでしょう。
逆の可能性もあり得ます。原点を起点に両者とも下降し、最悪の場合、相互確証破壊(MAD)※に向かう直線の軌道上をひたすら突き進むのです。人間は、消極的平和を起点に、MABの方向に行くこともできるしその正反対のMADの方向にいくこともできるのです。どちらの方向に行くかの決定は、人間にとってまさに究極の選択といえるでしょう。
図2において、理想的な積極的平和の軌道から外れる曲線を私はオレンジ色で描き込みました。このような積極的平和の軌道からの「外れ」は、なぜ起こるのでしょうか。そこには構造的暴力および文化的暴力が強力に作用していると考えることができるのです。今後の課題として、この点の詳細な分析が必要であると私は考えています。
※相互確証破壊(MAD/mutual assured destruction)
核抑止論の基礎をなす概念。攻撃を受けたら確実に報復できる状況をとることによって互いに先制攻撃を防ぐ。冷戦時代に発展した軍事戦略で、「恐怖の均衡」と呼ばれる。
※相互確証至福(MAB/mutual assured bliss)
相互確証破壊の対極にある状態を表すものとしてガルトゥングが造った概念。
現代の理解(とりわけイスラエル/パレスチナ紛争に関する)に重要な文献としてガルトゥングも推奨するE.サイードの『オリエンタリズム』を私はかなり前から読んでいます。そこには2つの主要なテーマが響き渡っています。
「彼らは自分で自分を代表することができず、誰かに代表してもらわなければならない」(K.マルクス)、および、「東洋は一生の仕事である」(B.ディズレイリ)。
これらはまさに1つの構造的暴力である植民地主義を正当化する文化的暴力にほかならないでしょう。
いまの私には、とりわけフローベールの百科全書的滑稽小説『ブヴァールとペキュシェ』へのサイードの言及がきわめて興味深く思われます。
2人の書記の1人が思いがけず相当の遺産受取人になったため、彼らは都市生活を放棄し、やりたいことをなすべく田舎の生活を始めます。幸い好奇心が旺盛な彼らは、時間と知識の中を動く旅行者のように、農学・歴史学・化学・教育学・考古学・文学と手に届くあらゆる分野の研究を開始します。しかしいつも、良い成果が得られない。ついに研究に飽きあきし、彼らは「批評のない」テクストの忠実なコピーの生活に戻ってしまうのです。
これは現代のわれわれの知的状況を象徴的によく表現しています。ゆえに現代において領域横断的な平和研究を志す私の問題意識は次のようにならざるを得ません。
“ 彼らの運命をわれわれはいかにして回避できるか? ”
ガルトゥング平和学の体系がそのための導きの糸になると私は確信しています。