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書道 NEWS

教えて!書道教育のあれこれ 
第2回:芸術科書道で学ぶこと

高校の書道の先生は、学校の中で1人ということが多いのが現状です。特に若い先生や講師の先生が、授業の進め方や指導方法などで困った時、誰に相談すればいいのか。そんな悩める先生方のために、教員歴30年超のベテラン先生が、書道教育のあれこれを連載で紹介していきます。第2回は、高校で書道が芸術科目である意義や書の特質について語ってもらいました。

国語科書写から芸術科書道へ

一般的に、書写と書道は同じだと思っている人が多いように思いますが、どんな違いがありますか?

書写は小学校、中学校の国語科の一領域です。 小中で学んだ毛筆や硬筆の学習が、高校になると、国語科ではなく芸術科での学習になります。教科自体が変わるというところが最も大きいです。もちろん、文字を書く、言葉を書くとか、毛筆を用いるというところは変わらないのですが、小中学校の国語科の中でのメインテーマである「伝え合う力」を養う中で、書写は、文字を正しく整えて書くというのが一番のポイントになります。また、扱う書体が、小学校では楷書のみ、中学校では行書も加わります。

この国語科書写が、高校で芸術科書道に変わると、書写の範疇では追いきれない部分、例えば、歴史的な時間軸を持つ学習へと内容が拡がっていきます。漢字だけでも3000年以上の歴史がありますからね。そしてもう一つ、自己表出というのが入ってきます。音楽、美術、あるいは工芸という他の芸術科目と同様に、自分なりの表現をしていくというのが入ってきます。これはいわゆる自我の芽生えというものに大きく関係してくると思いますが、自分がどういう存在なのかというのを表現することが、芸術科目の学習の大きな柱でもあります。書写は、どちらかというと自己表出ではなく、伝え合うというところが主な学習なので、自分の書いたものを他の人が読めるかどうかというところが中心になるわけです。高校になると、それとは別に、例えば自分がある言葉を与えられた時、または自分がある言葉を書きたいと思った時に、その言葉をどのように表現していくのかということを自分の中で考え、組み立てていきます。また、それを作品という方法で人に伝えるということもあります。これが芸術科書道の学習です。

高校の芸術科書道というのは、小中学校の国語科書写の学習を内包するものですか?

書道は、書写で学ぶような実用的な部分も当然やりながら、そこから膨らんだ部分に焦点を当て、その膨らんだ部分を体験的に実感を持って学ぶというのが教科としての役割だと思います。同じ言葉を題材にしたとしても、 1人1人の考え方であったり、自分がその言葉に持つイメージであるとか、そういうものによって思い描く表現が違うのは当たり前です。1人1人考え方は違って当然なので。もちろん、その言葉には誰もがそう考えるというのもありますが、それだけではなく、そこに自分が、その言葉に対しての思い入れというものがあるとすれば、それをどういう風に書として形にしていくのかを追求していく。様々な書体、様々な過去に残されたいわゆる古典と呼ばれるものと自分が対話をしながら、自分にふさわしい表現、自分にふさわしい方向というものを掴み取っていくという作業が、書道の場合には必要なのです。そして、そのプロセスを楽しみながらやるというのが高校の書道という風に私は捉えています。

高校における芸術科目の現状

生徒たちは、高校で芸術の授業があることをどう捉えていますか?

一般的に普通科の高校は、芸術科目を置かなくてはいけないのですが、どの科目を置くかということについては、学習指導要領上決まりがありません。

ある調査によれば、高校生に、「将来役に立たないと思う科目は何か」と聞いた時に、 例えば芸術科目が上位に上がってきます。いわゆる実学的なところに結びつくものの方が役に立つ科目ということであれば、どうしても、進路あるいは将来の職業といったところに結びつく科目に目が向きがちになりますよね。ただ、芸術科目が必要ないという風に思っている生徒は、多くはないと思います。高校の教科の中で何が大事ですかと言うと、英語ですとか、国語、数学は大事ですという声に比べて、 やっぱり芸術は少し下がってくる。それは将来像と結びつきが強くないという事だからだと思います。それと、芸術、例えば書道などはもっと、こういう力が確実に身につくということを、我々教員側が生徒たちに伝えきれていないということもあると思います。

芸術の時間というのは、多様性を理解するのに最適な学びだと思うのですが、書道の場合、どんな学習が多様性の理解につながるのでしょうか?

書道というのは、一般的には字がうまくなるだけの教科ではないかと思われています。よく授業の中で私は、 同じ文言を書いたとしても、その表現は1人1人違うのだと言います。言葉の解釈の仕方が違う、表現の仕方が違う、選ぶ用具・用材が違う。違うということがいわゆる多様性なわけです。そういう多様性を見つめて、そしてお互いの良さをそこで認め合い、尊重するというようなところが一番重要です。ただそれは、基本的に点数化の難しい部分です。1人1人良さが違う、だからこそ、それを認め合うということができればいいですよね。

 

高校の芸術科書道で学ぶこと

高校の書道の授業では、漢字や仮名の古典の臨書に時間をかける場合が多いと思いますが、臨書とは一体どんな学習なのでしょうか?

高校の書道の授業で、臨書という学習をします。いわゆる古典の中から良さを学び取ろうというようなこと中心にやります。随分前のことですが、とにかく生徒に自由に書かせればいいのではないかというようなことを考える方もいました。古典などに左右されないで、自分の書きたいように書けばいいというのも確かにあります。筆がうまく使えなかったら、筆の使い方だけ、こうやったらこうなるよみたいに教えてあげればいいのではないかということもありますが、私自身は違うなと思っています。先ほど、自分なりに考えて表現するという風に言いましたが、ただ好き勝手に書くということではなくて、そこには芸術の一番大切なところである、いかに自己を見つめられるかという視点が必要だろうと思います。自分というのがどういう存在であって、どういうことが好きで、どういうものに興味を持っていて、どのようにしたいと思っているのかというようなことがわかっていないと、自分らしい表現に辿りつくことはできないと思います。それをわからせてくれるのが、実は臨書という作業だと思います。
臨書というのは、今まで残されてきたいわゆる古典、広く言えば名筆、そういうものの中から良さを学び取るという作業です。良さを感じ、学び取るというと聞こえはいいですが、最初はそれを真似て書くということをやります。ただ、それではちょっとつまらないという風に思う方もいらっしゃいます。私はずっと言い続けていますが、形を真似することだけが臨書ではありません。臨書というのは本来、書とは一体どんなものなのかというところに行き着くものです。いわゆる書の定義であるとか、あるいは書の特質であるとか、そういうものをどう捉えるかという作業だと思います。

書の特質とは

一般には、毛筆で字を書いたものが書であるという認識だと思うのですが、書というのは一体どんな芸術なんでしょうか?

以前、書とはいわゆる「文字を素材とした造形芸術である」とある教育者が言っていました。高校の書道の学習指導要領にも、以前はそう書かれていました。 その方がそういう定義付けをして、おそらく文科省の中でそれに誰も異を唱えなかったので、それが1人歩きしたということだと思います。書が文字を素材とした造形芸術だったら、レタリングも書なのかというような話になります。もちろん書の定義付けというのは非常に難しいです。例えば、筆耕という職がありますが、この仕事の場合、字を美しく読みやすく上手く書くという技能は必要ですが、自己を解放したり、自分は何を考えていてどういう存在で云々というようなことを突き詰めていく必要はないわけですし、極端に言えば、歴史を振り返る必要もないのです。

書には様々な特質というものがあります。例えば他の芸術と共通しているような特質もありますし、他の芸術とは一線を画すような特質もあります。書というのは当然のことながら、文字と言葉がなければ成立しないものです。文字と言葉というものを基盤に持っている芸術だということからすると、これは非常に文学とかに近いものだと思います。書の作品を見た時に、これがどこから書き始められて、どういう順序で書いたのかというのは、ある程度の知識があれば読み取れるわけです。筆順もそうですが、書くプロセスを追うことで、作品を読み取ることができるのです。書は一度でしか成立しません。いわゆる時間性だとか一回性だとかというような、時間を追うことができる、書いたプロセスを追うことができるものです。そして、書が成立するには、やっぱり用具・用材が必要になります。筆と墨というものがなければ書は成立しない。いわゆる筆墨性という特質ももっている。逆に言えば、筆という多様な表現ができる筆記用具がなければ、書というものは生まれなかったのです。太さが自在に表現できる、四方八方どちらに動かしても進むことができる筆記用具というのは他にないし、墨というのは、濃度によって濃い墨液から淡い墨液まで表現できて、しかもそれが紙の上でにじんだりかすれたりする。そういう多様な表現性を持っている。また、当たり前ですけど、同じものは絶対に書けません。絵画などは、気にいらなかったら削り落としたり塗り足すことができる。水墨画はできませんが、油絵などだったら、何度も手を加えることができます。東洋ではよく書画一致という言い方をします。それは、油絵や日本画などと書が一緒ということではなく、あくまで水墨画と書という意味です。水墨画と書というのは非常に近い。多くの場合、水墨画も、描いた順序というのはある程度知識があればわかりますし、墨の濃淡で遠近を表すことができます。書の場合、かすれなどを使うことによって遠近感を出していくという意味で、書画一致という言い方が成り立つのではないでしょうか。

また、体格も資質も違う1人1人によって生まれる運動性や時間性というものも、書の特質と言えます。運動性というのは、例えば筆圧であるとか、律動いわゆるリズムになります。書というものには、身体的なリズムというものが埋め込まれるということです。起筆にグッと力を入れる時、小さい字であれば 指から力が入るし、半紙だったら腕の力、大きいものであれば体全体の力が入っていく。身体性による力感、運動性が加わり、さらに、呼吸による律動の変化も生まれます。それを見る側が読み取るわけです。読み取ることによって、例えば大きい字であれば、紙のこのくらいのところに、最初ここに筆をドンと置いた、そして、ダーっとこう引いてきたなとか。そういう動きや速度感がある程度分かってくれば、それを想像しながら書を見るようになる。書かれたものにはいろいろな情報が埋め込まれており、見る側がそれを読み取ることで感動するわけです。筆を使っていかに強い力を紙面に加えるのか、紙の上で筆を引いていく中でその運動性をいかに表現していくのかというのが、書の醍醐味であり特質になると思います。

こういったさまざまな書の特質を、いっぺんに生徒たちに伝えることはできないので、いわゆる教材とか、古典、名筆を使い、少しずつ学び取っていこうというのが、臨書という作業になります。そっくりに真似して書こうとする中で、古典の作者が考えたり思ったりしたことを追体験する、たくさん自分の中で経験するのです。それが書の面白さであり、書の一番の醍醐味なのです。
そんな書というものを、いったいどのように鑑賞したらよいか。例えば、空海の手紙がここにあるとすると、1200年前にここに空海はいたのです。1200年前空海がここにいて、筆を紙に落とした。今そこに自分がいて、書かれたものを見ている。つまり簡単に言えば、鑑賞する対象の作者の書きぶりを追っていくわけです。それが書を鑑賞する時の醍醐味だし、それがわかると、空海はこう書いてるけど自分はどうしようか、どうやって書こうかというようなところに行くのではないかと思います。

 

鑑賞をはじめ、書で自分を表現するために必要なことがあれば教えてください。

鑑賞というのは、基本的に自分の表現の肥やしになるものなので、それをもとに自分の表現を考えていくということでしょうか。鑑賞の対象がいくつかあれば、好き嫌いが出てきたり、その中から、自分はこれを少し参考にしようとか、これに自分の考えをもっとこう付加していこうとか。鑑賞を足がかりに、作品を作っていったり、筆を動かしていくという作業をするのです。それが書というものだろうと思いますし、他の座学にはないところだと思います。書だけではないのですが、いわゆる体験を通して学ぶとところが、芸術が持っている強みだと思います。
書写の教科書にもいわゆる手本と言われるものがありますが、誰が書いたかとか、背景は出してはいけないわけです。ごく一般的に正しく整っていると考えられるものを提示しています。ところが、高校でのお手本、いわゆる古典と呼ばれている、良いねと言われて引き継がれてきた名筆は、真逆です。作者の人間そのものが出ているもので、それを感じることが大切な学びであるという。鑑賞や臨書、つまり古典と会話し、自分はどんなものが好きか、どれに魅力を感じるのかというところから、自分というものを発見をしていくのです。

昨今、アート思考というようなことがよく聞かれます。モノの本質に近づいていって、無から有を生み出すような思考のことで、これは芸術の可能性の1つでもあると思います。好き勝手書いていただけでは、 単なる自分勝手なもので終わってしまいます。1+1=2 というふうに説明できないのが、書や美術、音楽など芸術の世界なのです。

第1回はこちら

教えて!書道教育のあれこれ 第1回

第3回はこちら

教えて!書道教育のあれこれ 第3回:生徒の実像・目指す生徒像


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