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高校の書道の先生は、学校の中で1人ということが多いのが現状です。特に若い先生や講師の先生が、授業の進め方や指導方法などで困った時、誰に相談すればいいのか。そんな悩める先生方のために、教員歴30年超のベテラン先生が、書道教育のあれこれを連載で紹介していきます。第6回はスクールポリシー 、本質的な問い、個別最適な学びについて語ってもらいます。
目次
指導計画やシラバスの作成を作成する際に、スクールポリシーや本質的な問いというものをどのように反映されていますか?
私にそういう話がちゃんとできるかどうかよくわかりませんが、うちの学校の中でも、まずはゴールイメージを作ろうと。つまり、生徒が何が分かるか、どのような力が身につくかというようなところから考えないといけない。そして、そのゴールイメージを明確にした上でやるべきことを見出していく、というなようなことを研究部では言っています。そのために、うちの学校の実際のシラバスでは、「本質的な問い」を記載するようになっています。
私が立てている本質的な問いというのは、「書とはどのような芸術か」や「書の美とは何か」というものです。最終的に、自分でそれが「わかる、見出だす」ことができれば、自分の作品作りというのは、当然そこに向かうために自己判断できるだろうし、課題を見出すことができ、解決方法もわかるということになります。逆の言い方をすれば、その作品制作をしていくプロセスというものをしっかり踏んでいけば、書の美とは何かというところに近づいていけるはず、ということだろうと思います。ちょっと前の話で言えば、何を学ぶかというよりも、もっと本質的な、いわゆるその主要能力、キー・コンピテンシーと言っていましたが、書道で言うそのコンピテンシーとは一体何か、そのためには本質的な問いを立てなければ始まらない、計画は立てられないということだろうと思います。
今後目指すべきとされる「個別最適な学び」とは、例えばどのようなイメージの授業でしょうか?
一斉指導すると、結局技術的な何かを教えるというような、例えば背勢で書きましょうとか、用筆はこうですよという話にどうしてもなります。 一方で、個別最適な学びをやっていくと、難しいのは評価であり、学習過程と評価をどう結びつけるのかといったところになります。一律の何かができたとかできないとかという評価ではなく、いわゆるプロセスを評価するということです。例えば何かの古典を学ぶ中で、内容を理解するために他の古典にもあたってみる、というようなことをしていること自体を評価していく。そうなると、生徒は自分なりにしっかり学習を記録して、いわゆるセルフ学習、ポートフォリオをしっかり作れることがすごく大事になります。
すでに一部の教科書は、そういう学習への対応を見据えています。そうなってくると、教科書をはじめとしたさまざまな教材を、生徒も教員もいかに活用できるかといったところが重要になってくるのではないでしょうか。そのためには、教員が何を教えるかという発想から抜け出てこないといけない。極端に言うと、臨書とか創作とかもそうで、臨書しないと書が書けないわけではなく、創作から始めて、必要に応じて臨書を行うというような発想をしていくことも必要でしょう。つまり、皆が同じ課題を臨書をしているだけでは、書の本質には直接的には結びつきにくいし、そこから技能的なところへシフトしていっても、やっぱり本質的なところへは結びついていかない。そこが一番問題なのではないでしょうか。
結局、本質的な問いというのは、教員自身が追い求めていることでもある場合が多く、哲学的なものに行き着くことになります。私自身も、書とはどのような芸術かという問いに対し、明確に説明できるかと言われると難しいです。書の美とは何かと言われても、逆にそれを知りたくて、自分は臨書もするし、創作活動もするのです。そのプロセスであったり、そういうものをその授業の中で、ICTを活用したり、個別最適な学びというものを実現した中でこうやれば いいだろうということなのです。ただ、個別最適な学びというのも、ある程度先生自身が分かっていないとうまく展開できないことはあります。 そこはやっぱり、発想の転換をしないといけないと思います。
あとは、大学の授業を変えないとダメだというのもあるとは思います。これは自省を込めて。特に書道の場合は、ある程度限られた大学にどうしてもなってしまいます。国立大学だって限られているし、私立でもある程度書道の教員を排出してる大学は限られてきてしまうので、そういう大学の先生方が、教員養成に関わる授業の中で、実際に現在の高校で使えるような授業、それこそ、コンテンツではなく、コンピテンシー、最適な学びなど、生徒の力を育むために必要な教員の力量、また、書の本質、本質的な問いというものにどうやって近づいていくのか、そういったことが意識される大学の授業になっていかないといけないと思っています。
本質的な問いを立てることがなぜ必要なのでしょうか?
芸術ってやっぱり一問多解なのです。本質的な問いというのは、その解答を出すことが目的なのではないと私は思います。一つの問いがあった時に、一つの答えに行き着くというのは、芸術ではないのではないでしょうか。書道の場合、実際の授業では、全てが分かっていることを学習するのではなく、いろいろな考え方があって、いろいろな価値観があって、そういう中であなたはどうやって考えているの、というようなことが求められます。それに対して、自分の判断というものを、ある根拠を持って示すことができる。思いつきではなくて、自分が学んできたこと、自分が経験してきたことの中からそれを判断すると、これが今の答えですよ、というのを示せるかというのが、それこそ最終的に、生涯教育に結びついていく、学び続けるということになります。教員も同じようにやっていかなくてはいけません。授業の方法論とか授業のあり方自体だって更新されるべきでしょうし、先ほどから言われている個別最適な学びというようなものは、そういうところから来た発想になるのだろうと思います。