基盤的コミュニズム 〜些細な交換が作る公共圏〜
高校公民

資本主義経済の矛盾を超えた新しい社会のあり方が求められています。今回は、「公共」第1章「人はどのようにつながるのか」部分を執筆してくださった立命館大学の小川さやか先生をゲストに、緩やかな互酬性によって構成される「基盤的コミュニズム」の可能性を探ります。
聞き手は、第1章全体の監修・執筆者である倉石寛先生、金井文宏先生です。モースやグレーバーの洞察を基に贈与の役割を紐解き、新しい経済システムを考えます。
ものに宿る霊「ハウ」
倉石 よろしくお願いします。小川先生には新訂版に合わせて「人はどのようにつながるのか」部分をご担当いただきました。今日はご専門である文化人類学、特に贈与や互酬性の観点から、社会における人と人とのつながりについて掘り下げていただければと思います。
金井 楽しみにしてきました。モースの「贈与論」(※1)は、社会のなりたちを考える上で面白い視点を与えてくれます。「贈与論」では、物に宿る精霊のようなものを表す「ハウ(hau)」という概念が紹介されていますね。小川先生、「ハウ」についてもう少し詳しく解説していただけますか?
小川 「ハウ」とは、贈与者の霊や魂(人格)として解釈されています。モースは、『贈与論』で、贈り物に返礼が起きるのは、贈り物にとり憑いた霊「ハウ」が元の持ち主のもとに戻りたいと望むからだというマオリ人の情報提供者からの説明を取り上げています。誰かに何かを贈るということは、自分自身の一部を贈ることなのだというのです。なんだかオカルト的に聞こえると思いますが、具体的なエピソードを考えてみると、よく分かる話です。
『所有とは何か――ヒト・社会・資本主義の根源』(中央公論社、2023年)に書いた話を紹介します。
ある木材小売店の青年の話ですが、お店が経営難に陥り、木材問屋に掛け売りをお願いしに行ったそうです。すると青年を見た木材問屋の女性は、青年に亡くなった自分の甥を重ね見て、思い出話をしてくれたそうです。彼女の甥もまた口下手で商売は苦手だったけれど、手先が器用だったからのちに評判の職人になったのよ、と。そう言って女性は、甥の遺品であるカンナなどの道具を青年に譲り渡したそうです。

小川 約2年後、私は偶然その青年と会ったんです。小売店の店員だった彼は、家具職人となって工房を構えていたんですよ。彼は当時もらった道具を見せながら、「この道具を手入れするたびに、あの女性を思い出す。今はまだ駆け出しで彼女の甥のような腕はないけれど、いつかこの道具で立派な家具を作り、彼女にプレゼントするのが夢なんだ」と語ってくれたんです。彼が成功するかどうかはわかりません。でも彼は、「甥のように再起して立派な職人になってほしい」と願った木材問屋の女性の思いと共に生きているわけです。彼にとって、その道具には、木材問屋の女性の「ハウ」が宿っているのです。
金井 すごいエピソードですね。
小川 でも、どんな贈与にでも「ハウ」は宿るわけではありません。飲み会で奢られたビールのことって、すぐ忘れるじゃないですか。
一同笑
小川 それは単なる社交のゲームだからだと思うんですね。でも、もしその飲み会が特別なものだったら話は違います。あの時の飲み会での奢りが契機となって自分の人生が変わったんだとか、事後に振り返ることができるような贈与に「ハウ」は宿るんじゃないでしょうか。
たとえば師匠から弟子へと受け継がれる道具には、師匠の魂や生き方が宿っていると考えられますし、あるいは「いつも優しいあなたでいてね」とのメッセージがこもった彼女からのプレゼントを身につけながら酷いこと言おうとすると、「あ、いかん、いかん」と歯止めになったりするでしょう。
「ハウ」は常に物を介して、その人の人生そのものに作用します。だからこそ、重たい贈与もあるわけです。「受け取るからには私の期待に応えてもらう」といった贈与は、もう重すぎて持っているだけで人生が壊れそうです。
「ギフト」という単語には、実は「毒」の意味もあるのです。グレーバーによると、ハウは動詞になると「扇動する」「励ます」という意味もあるし、同時に「台無しにする」「壊す」という意味もあるようです。つまり、ハウの込められた贈与は人を励ます力をもつ一方、場合によってはその人の人生を台無しにしてしまう毒になることもある。だから、軽やかな「ハウ」を乗せるのがいいんです。
軽やかな贈与、毒となる贈与
金井 教科書には「贈り物には与え手の魂が取り憑いて、その魂が与え手の元に戻りたいと願うから、お返しということが起きてくる」とあります。お返しってなんなんでしょうか。
小川 マオリの人たちにとっての贈与は、単なる物のやり取りではなく、人と人との魂の繋がり、社会的な関係性を維持するための重要な行為でした。贈り物が「頑張って」とか「優しいあなたが好き」といった働きかけを贈与した人のように働きかけているのだとしたら、贈り物を受け取ることは、贈与者の一部を受け取ることと同じです。そうした働きかけを通じて、贈り物をもらった人は、贈ってくれた人の思いに応えようとしていきます。こうして考えてみると、贈り物を返すというのは、必ずしももらった贈り物と同じくらいの値段や価値をもつ贈り物を返すということではなかったのです。
金井 プレゼントや奢られることを極端に嫌がる人もいますね。
小川 贈り物はお互いの立場性と関係しているので、いつももらう側だと、劣位に置かれたような気持ちになって嫌ですよね。たとえば、友人同士での贈与交換において、1000円のプレゼントあげたのに1万円のプレゼントを返されたら、なんだかマウンティングされている感じがしませんか? だから、3000円のプレゼントだったら3000円くらい、5000円なら5000円くらいのものを返すのがいい。
同じ額のプレゼントを交換するなら最初から自分で好きなもの買ったらいいじゃないかとか思うかもしれませんが、そうではなく、あれは「私たちは対等な友人だよね」という相互確認をしているのです。
逆に言うと、対等な関係でなければ、奢られても平気です。うちの院生なんかもしょっちゅう「先生、ご飯食べに行きましょう」と言ってくる(笑)。彼らからすると先生はお金をもっていて自分たちは貧困学生だから、奢ってもらったって負い目は感じないし、むしろ先生と学生という異なる立場性を確認することになるのです。でも、その塩梅はとても難しい。
金井 親が子どもに明らかに過大な期待をかけて、教育環境をどんどん与える場合もそうですね。それによってお母さんに頭が上がらない子は多い。そして、親子の関係が変わると複雑化します。たとえば子が成長して初任給で親にプレゼント買ったら、親からすると自分の子どもは子どもなので、それに対して更にそれよりも良い贈り物を返したりするんです。これも贈与によって立場が決まる例ですね。
倉石 誰かを支援するというような、物ではない贈与はどうでしょう?
小川 物でなくても同じです。もし一方通行な支援をし続けていると、支援を受ける人はだんだん「自分は何もお返しできない」とコンプレックスを抱えるようになり、頭があがらなくなってきます。実は、暴力によって支配されるより、親切によって支配される方が抵抗しにくくてやっかいなのです。だって相手は自分に善いことをしているのだから、怒ったりしにくいですよね。
市場原理が切り捨てる「適当さ」
金井 現代ではすぐに「お返しをしなくては」と考えてしまうけれど、市場経済の影響なんだろうな。
小川 ですよね。市場経済が浸透しすぎて、受け取ったら同じだけ返さなきゃいけないという感覚に陥ります。メールのやり取りでさえ、送った量がアンバランスだったり返信が遅れたりすると、不公平感をもつ人もいます。でも、実際に私たちの人間生活は、基盤的コミュニズムの上に資本主義経済も成り立っているんですよ。もし今、コピー用紙をとってもらうだけで、5円なり10円なりお金を払っていたら、何もできません。道を教えたから「貸しイチね」ってなったら窮屈ですよね。こんなふうに、私たちの社会は助けてもらったことすら意識していない助けあいの基盤の上に成り立っています。
倉石 地域社会には昔はもっと曖昧な共通の場がありましたよね。そういう「適当な」関係性は、セーフティネットでもありました。
小川 私たちは親友や家族といった大事な人間関係が少数でもあれば、困った時にはその関係から助けてもらえると考えがちです。けれども、それはイコール、ちょっとでも互いの助け合いの均衡を間違えてはいけないという圧力と共に生きていくことでもあるんです。
先進国では孤独が社会問題化していますが、調査によると実際には家族や友人がいる人が、自分は孤独だと訴えている。心が満たされないのは必ずしも助けあう人間がいないからではなく、濃密な人間関係によっても孤独は生み出されてしまうのです。
倉石 小川先生は以前、タンザニアでのご経験をお話しされていましたが、そういう雑多な社会における自然な互助があるのが、基盤的コミュニズムですよね。
小川 はい。タンザニアではお店に行くだけで、「誰に子どもが生まれたらしい」「奥さんと喧嘩したんだって?」など、なぜ知ってるのか不思議になるレベルの、まぁいろんな会話が繰り広げられています。そうしてふと「ま、大変だったね」と言っておまけしてもらったりするわけです。重要な少数の人との関係を必死に維持するのではなく、多くの人と緩やかにつながっています。
倉石 そういうものを意図的につくろうとして、最近は「絆づくり」なんて言葉も聞くけれど、無理やり関係を築こうとしても、あれって結構難しい。
小川 目的的に作られた共同体はではなく、もっとさりげないあり方ですよね。でもそれってそんなに難しいことじゃないのです。相手が若干ピンチの時に、ちょっと何かをしてあげればいい。嫌いな人にこそ、軽やかなハウが宿る贈与をしてみるとかね。
金井 え、何それ。
小川 普段仲良くしている人に贈与したところで確認にしかなりませんが、嫌いな人に贈与をすると、向こうは「なんだ? コイツ実はいいやつなのか?」って勝手に思いめぐらせてくれる。互酬性を考えると疲れるので、お返ししなくてもいい程度の贈与ですよ。食事中に醤油をとってあげるとか。
金井 そもそも一緒に食べに行かないしな、嫌いな人と(笑)。互酬性を逆手に取る発想ですね。

小川 後輩の松井梓さんが、モザンビーク島の人口密集地で近所付き合いを研究していました(※2)。そこでは交流も密なので、噂話やゴシップがと日々大量に飛び交うんですが、どんどん話題が移るので気にしないという身構えもつくられている。人と人の密なやり取りはあるものの、関係性は開放的なんですよ。
それで思い出したのが、自殺希少地域を研究した精神科医の方の本。確かタイトルが、『その島のひとたちは、人の話をきかない』だった(※3)
金井 僕らそうやな。
小川 笑。相手を気遣う働きかけはたくさんあるけれど、その働きかけに対してお返ししなきゃと真面目に考えなくてもいいという社会が、温かくて楽な、生きやすい社会なのでしょう。
2万円くれる親友より200円くれる多くの人
倉石 うちは商売をやっていた家に育ったんですが、お店って本当にいろんな人が来るから面白いんですね。店が地域の人たちの日常的な交流の場にもなっていました。家業は暖簾分けで始めた商売だったので、親方と子分のような関係性があり、掛けで仕入れができるなど取引先とは完全に顔と信用で成り立っていました。何度か代替わりするうちにそうした関係は崩れ、結局店は潰れてしまいましたが。それでも、親方のおかげで倒産時も借金を負わずに済んだんです。

小川 ジェームズ・スコットの「モーラル・エコノミー」という概念は、面倒くさい人間関係をなぜ維持するのかを考えるヒントになるかもしれません(※4)。東南アジアの小作農が、搾取されるにもかかわらず自作農になりたがらないのは、ピンチの時に地主が生存を保証してくれるからです。ブラック企業で働く人がなかなか辞められないのも、そうしたモーラル・エコノミー的要素があるのかもしれません。
でも、もう少し気軽な感じでやりたいですよね。タンザニアでは、「2万円貸してくれる親友よりも、困った時に200円カンパしてくれる多くの人が大切だ」という言葉があります。少額の助け合いは貸し借りの意識を生まず、多くの人との緩やかな繋がりを生み出すのかもしれません。
倉石 パチンコで儲けた人がそのお金を気前よくみんなで分け合う、なんていう習慣も、ある種の “その日暮らし” の助け合いの精神の表れかもしれんね(※5)
小川 互酬、すなわち互いの助け合いの帳尻をきっちりととろうとすると、同質的な関係でないとうまくいきません。タンザニアの人々は多様すぎるし流動性も高く、互酬性の均衡を合わせるのが難しい。だから、X(旧Twitter)のような世界観で、助けあいをします。不特定多数に投げかけ、たまたま助けてくれる相手を待ちます。
9割はスルーでしょうが、それで良いんです。みんな似たタイプであれば全員反応するかしないかになりますが、多様な関係をもっていれば、そのうちの1人は反応します。何を投げてもそうです。学校社会もスクールカーストによって固まるより、さまざまな友人関係をもっていた方が、何かあった時に1人くらいは反応してくれる確率が高まります。普段大人しい自分でも、ヤンキーに貸しをつくっておけば、いじめられた時にヤンキーが乗り出してくれるかもしれません。
制度化された社会と基盤的コミュニズム
小川 私たちは今だって基盤的コミュニズムの中に生きていますが、学校の成績や給料などを決定する時になると、急にそれぞれの人間は皆同じであるという前提で判断するようになります。個人が抱える諸々の事情や個々の身体的・人格的な異なりを無視することで初めて、パフォーマンスの高い人が偉いという評価が可能になる。
だって、あの人は恋人に振られたから遅刻しても仕方がないとか、あの人は私よりも手が小さいから作業が遅くても仕方がないといったことを考えていたら、業績の評価なんてできなくなりますよね。
でも、私たちの普段の人間関係であれば、そうした相手の状況や個性を踏まえたさりげない親切で回っているのです。ただし、そうした人間関係のささやかな配慮を逐一するのは大変だ。そういうわけで、配慮すらも「合理的配慮」として制度化されていく動きが登場しています。
もちろん障害や病をもつ人が配慮を得ることを権利にすることは大切です。でもだからといって、合理的な配慮さえすればそれで解決という形で終わらせてしまったら、基盤的コミュニズムは失われていきます。

金井 働き方改革にも通じる問題ですね。ルール化は安易な解決策やけど、人間関係においては柔軟な対応の方が本来は自然です。だから制度化はその歪みを受けて、じゃあ何回までなら口頭注意でいいのか、どこからならアウトなのか、と本質を見失って硬直的なルールを生み続けます。
小川 配慮を受け取らない側からは、自分だけが損をしている気分になるという声もあります。もし融通の利いた関係に対して「ずるい」と感じるとすれは、皆が平等に貢献すべきだという互酬性の病と言えるかもしれません。「自分は草むしりに6回参加した、あいつは2回しか来ない」「自分だけが頑張ってる、あいつは調子良くサボってる」みたいに帳尻ばかりを気にして。
そうなると、お互い様の論理でやれていたはずのものが、復讐の論理へとスライディングしていく。リベンジもまた、互酬性なんですよ。
金井 なるほどね。最後に、基盤的コミュニズムをベースにした社会はデザインできるのか、という問いで締めくくりたいと思います。
小川 グレーバーは「人間経済」という概念を提唱しています。それは富の蓄積よりも人間の創造や破壊に関心をもつ経済で、人間は数値や貨幣に還元できないことを了解している経済です。
介護や看護のような日常的なケアは人間経済においては重要な要素ですが、商業経済では評価されにくい傾向があります。人間経済には正解がないから複雑だといえるのですが、だからといってそこで正解を探し出すと評価のための細かな基準が作られ、「ブルシット・ジョブ」(※6)が増加します。ルール化は一見効率的ですが、別のコストを生み出すのです。
基盤的コミュニズムを意識した社会とは、そうした人間経済の価値を再評価し、それぞれの事情や偶然性を織り込んだ、もっと適当で緩やかな社会なのかもしれませんね。
倉石 非常に興味深いお話、ありがとうございました。
金井 楽しかったです。ありがとうございました。
※1『贈与論』マルセル・モース。第二章では、マオリ族に伝わる「ハウ」というものに宿る霊的な力を紹介している。
※2『海と路地のリズム、女たち―モザンビーク島の切れては繋がる近所づきあい』松井梓(春風社)
※3『その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く』森川すいめい(青土社)
※4『モーラル・エコノミー: 東南アジアの農民叛乱と生存維持』ジェームス・C. スコット(勁草書房)
※5 『その日暮らしの人類学 もう一つの資本主義経済』小川さやか(光文社新書)
※6 グレーバーが提唱した概念で、無意味な書類作成など、どうでもいい仕事を指す。『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』デヴィッド・グレーバー(岩波書店)
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