演劇と教育
平田_劇場や演劇を支えている、もうひとつの柱に「教育」があります。ヨーロッパの主要先進国では、小学校から高校まで「演劇」の授業があります。国語の科目の中にあったり形はさまざまですが、何かしら演劇的な授業がある。もちろん学校には演劇専門の先生もいます。したがって国立大学にも演劇学部があるわけです。
5年くらい前から韓国でも高校の必修科目として演劇を導入しました。台湾やシンガポールでも必修科目ではないにせよ、演劇の授業はかなりやっています。日本では芸術科目といえば音楽と美術と書道で、演劇はありません。この点において日本はアジアの先進国の中でもかなり遅れを取っています。
この弊害はいろいろあって、たとえば日本でも国語の授業で一時期、ディベート型の授業が流行りましたね。これはイギリスのパブリックスクールの授業を真似たものですが、イギリスの生徒たちは小学校から演劇をいっぱいやって、そこでコミュニケーションの方法を学んでいるんです。つまり演劇が基礎にあり、その上で高校でスピーチやディベートを学ぶわけです。ところが日本の場合は、ディベートの部分だけ見て“これは素晴らしい”と輸入しようとしたのですが、基礎の演劇をやっていないから、うまくいくはずがないんです。
演劇的な人間の在り方
鈴木_演劇と公共というお話ですが、演劇は実にさまざまな人々が協働する芸術で、演劇そのものの中にすでに公共性がある。演出家や俳優、照明、美術、音響はもちろんですが、宣伝してチケットを売る人、マネージメントする人、劇場の管理人などさまざまな職種のコラボレーションがあり、どの人が欠けても演劇は成立しない。このような演劇のあり方はこれからの日本社会にとっても大きな意味があると考えています。近代の製造業を中心とした仕事では、一様な能力をもった人々が同様の作業を分担して黙々と効率よく協同して、物を作ることが重要でした。このような工場型労働に対して、「卒近代社会」を迎えた日本では今、劇場型仕事が重視されるようになってきています。つまりそれぞれ異なる才能や資質を持った多様な人材が集まり、違う種類の役割を組み合わせ、コラボレーションして新たな付加価値を生んでいく。演劇を作るのは非効率なプロセスで、実際に上演に至るまでには膨大な対話と試行錯誤を経て、異なるものをすり合わせながら、作り上げていく。
ここ最近私は「板挟み」と「想定外」に適応する能力を教育の重要キーワードとして提言し続けています。私も演劇人のはしくれだったのでよく分かるのですが、劇団のメンバーは大抵わがままで、好き勝手にいろんなことを言うので、本当に常に「板挟み」の連続です(笑)。それからライブで上演する芸術ですから、毎回何かしらアクシデント=想定外が起こる。だから演劇を小・中・高と学校で体験することには「板挟み」と「想定外」を経験し向き合う能力を養うためにも、とても大きな意味があります。
それから「主体的・対話的で深い学び」が新しい学習指導要領では繰り返し強調されていますが、演劇は言うまでもなく「主体的」で「対話的」です。おしゃべりでなく「対話」が重要で、ここは平田さんに詳しくお話いただきたいところです。
アクティブ・ラーニングと対話
平田_先ほども言いましたが、対話型授業、いわゆるアクティブ・ラーニングというものは日本ではなかなかうまくいかない。日本の授業ではお題を挙げて”さぁ、議論をやりましょう”と始めても、生徒たちはどうしても一直線に模範解答みたいなものに向かっていってしまいます。全然、対話が生まれない。なぜなのか?対話と会話をきちんと区別しましょう、というのが私が一貫して主張してきたことです。英語ではダイアローグとカンバセーションでは意味がまったく異なります。
私の定義では対話とは「異なる価値観を持つ者同士が話し合い、意見をすり合わせること」です。しかし日本には階級がなく、沖縄とアイヌを除けばほぼ同一民族で同じ文化を共有してきました。さらに中高一貫校ともなれば、だいたい同じような所得層の子供たちが集まっている。つまり学校の中に多様性がない、異なる価値観もあまりない、無理にそれを引き出そうとするとイジメにつながるリスクもある。対話がとても生まれにくい場所なんですね。だから何かしらの仕掛けが必要なんです。その仕掛けの一つが演劇です。
鈴木_対話の題材として、ノンフィクションよりフィクション、つまり演劇の方が実は語りやすいという面もあると思います。ノンフィクションで実社会について対話をしようとすると、たいていの場合、忖度と言いますか、ある落としどころに向かっていってしまう。
平田_そうですね、役を演じるからこそ言える事ってあるんです。自分をさらけ出すのは怖いけど「役」ならできると感じる子どもは多い。人形劇や仮面劇なら尚更で、人形に託して語るという行為は子どもの頃はみんなやっていたことですから。
先ほど申し上げた通り、対話とは異なる価値観や立場の他者と出会ったときに生まれる、そのドラマを描き出すのが演劇です。だからこそ演劇のなかで役を演じ、対話の意味をつかむことが重要だと考えています。
劇場型仕事と工場型労働
平田_先ほど鈴木さんが製造業と演劇を比較されていましたけど、私もコロナ禍で似たようなことを発言してネットで炎上しました(笑)“平田オリザは製造業を馬鹿にしている、演劇だけを特別視するな!”と叩かれたんですが、私に言わせればこの「比較」というのは熟議や対話型の授業においてもっとも重要なことなんです。私は大学はICUに行ってましたが1年生の作文でまず最初にやるのがcomparative=比較でした。物事を比較することで本質を捉え考えを深める。これってどちらかを上にするとか、下に見るとかそんなつまらない話ではないんですけど、とにかく日本人は何かを比べることそれ自体が嫌いなんですね、それが露呈したと思います。
鈴木_工場型労働と劇場型仕事という言い方は確かに炎上しそうですね(笑)ただし、今後工場での単純労働は間違いなくAI、ロボットに代替されます。というか既にそうなっていますよね。今回の新しい学習指導要領づくりでもこの点は重視されています。シンギュラリティ(=技術的特異点 2040年代半ばに人工知能が人間の脳を上回るといわれている)の後に必要とされる人材をどう育てるか、そのための教育改革でもあるわけです。日本では工場型労働偏重志向が長らく続いてきました。1980年代には”ジャパン・アズ・ナンバー1”と言われましたが、日本は規律正しく働き、ミスを改善し続け、正確かつ効率よくモノ作りをする労働システムの構築で世界1位になった。このような労働者と管理者を育ててきたのが日本の教育システムです。その象徴が1979年から始まった共通一次試験ですね。しかしこの圧倒的な成功体験が今では大きな足かせになっていて、働き方も教育もなかなか改革が進まない。
たとえば製造業でも新しい商品を開発するような仕事は、AIではなく人間が行うものです。このときに必要とされるのは工場型ではなく劇場型仕事や活動なんですね。
この間、NHKで渋谷駅の埼京線と山手線の移設工事のドミュメンタリー番組を観ました。これまで山手線から埼京線が縦に離れていて乗り換えに10分くらいかかっていたので、これを並列させるための工事です。日本人がすごいなぁと思うのは、鉄道の営業を1日も止めずにこの大規模な工事をやろうとするところですね。
平田_フランスだったら平気で2か月くらい止めちゃいますね(笑)
鈴木_その番組で面白かったのが、工場で設計したパーツを現場に持っていったらうまくはまらないというアクシデントが起こった。長年の使用でいろんなところが変形していて、現場は設計図通りではないんですね。電車を止めてはいけないから時間もない。さぁ、どうするか。いろんな人の力やアイデアや知恵を結集して、最後は見事にはまるんですが、これが先ほどの劇場型の仕事なんだと思いました。
ふたば未来学園での実践
平田_なるほど。私がやっている演劇のワークショップについてお話しますと「ふたば未来学園」でやっているのはこんな授業です。まず質問するのが「君たちにとって福島ってどんなイメージですか?」と聞きます。お菓子の「ままどおる」とか映画の「フラガール」とかいろんな答えが出てきます。次に「県外の人は福島のことをどうイメージしていると思う?」と聞くと全員が「原発」と即答します。自分が持っているイメージと他者が持っているイメージは実は全然違うということを理解してもらいます。そのうえで「君たちは福島で生まれ育ったという事実は変えられない、これを背負っていかなければならない。たとえば福島の農産物が安全であるということを県外あるいは海外の人にどう伝えるのか。数字や論理でどれだけ説明しても、人が持っているイメージは簡単には変えられません。だから伝え方を工夫しなくちゃいけない。その伝え方のひとつとして演劇という方法があるんですよ」と授業の意味を説明しています。
それからグループに分かれ、地域に出て取材をします。そこで聞いたり調べたことを元に6人1グループで、お芝居を作っていきます。たとえばあるグループは農協に取材に行き、福島の農産物が風評被害のせいで東京でぜんぜん売れない、という話を聞いてきて、それを脚本にしてきました。私は「福島の野菜が危ないって君たち言われたことある?」と聞きます。生徒は「ない」と答えます。「そうだよね、もうあからさまな差別や中傷って福島についてめったに言われないよね。でも野菜が売れないのはどうしてなんだろう」と投げかけます。そうすると生徒たちは一生懸命考えるんですね。最終的に仕上がった脚本では、東京で行われた福島物産展が舞台で、そこを訪れたある母親が福島のことを心配する言葉をかけながら、自分の子供が桃を触ろうとする手をさっとたしなめる、というシーンが書かれていました。これがリアリティです。見えない差別を演劇はリアルに伝えることができるんです。
ほかに生徒が書いたお芝居で印象に残っているのはこんな話です。福島の陸上部の高校生が全国大会で大阪に行き、そこで小学校時代の同級生に再会します。「久しぶり、懐かしいなぁ」と彼に話しかけるのですが、その同級生はそそくさと逃げていってしまいます。そして後からラインで「ごめんね」とメッセージが届くという切ないお話です。実際にふたば未来学園の高校生の多くは小学生で震災に合い、全国に避難していた子も多いんですね。そしてそこで差別やいじめを受け、不登校になった生徒もたくさんいます。だから福島出身であるということを隠す人たちの気持ちが分かるんですね。このように演劇には複雑で重層的な福島差別の構造をイメージで伝える力があるんです。
ふたば未来学園での演劇教育(写真提供:ふたば未来学園)
演劇の稽古の模様(写真提供:ふたば未来学園)
公共の授業
鈴木_そうですね、「重層的」と言われましたが、私もこれが重要なキーワードだと考えています。物事にはさまざまレイヤーがあり重層的に構成されています。だからあるレイヤーでは対立していても別のレイヤーでは仲間であるということがありえるんですが、これが理解されずらい。私の言葉でいえば「アインデンティティーズ」、複数形のアイデンティティで、同じことを提言しています。
演劇には平田さんのお話にあったように物事の重層性、複数のアイデンティティをあぶり出す力があります。2022年から高校社会科の公民で新しく始まる「公共」の授業にも同じ期待をしています。社会課題がどのように重層的に構成されているかを理解することが極めて重要で、そのために他者との対話、熟議が必要不可欠です。合意を取る、解決策を考える前に、まずは課題の本質をさまざまな視点から重層的に掴み取ることが高校の授業では大切なんです。
平田_大学ではアートマネージメントを教えていますが、最初の授業で行うのが、ガス、水道、電気、鉄道、劇場、映画館、野球場、パン屋さんなど20個くらい挙げて公共性の高い順番に並べなさい、という出題をします。当然、順番は人それぞれでちょっとずつ違いますよね。次に4人1組で議論して順番をすり合わせ、その基準とともに発表してもらいます。施設を使用する人数の多さで並べたり、公的機関が運営しているものを上にしたり、並べ方とその根拠はそれぞれですね。この授業のポイントは「公共性についての基準は、意外とみんなバラバラなんだよ」ということです。「公共」という言葉からは何か明確な基準があって正解があるように感じるかもしれないけれど、何が公共的なのか、人それぞれ違うんですね。「でも今みなさんは4人で、そのバラバラな公共性について議論して基準を決めて合意を形成した。これが政治ということなんです」というように教えると理解してもらえますね。ちなみにこの授業で盛り上がるのは「野球場」についてです。野球場ってみんな公共的価値で下位に置くんですけど、おそらく日本にある野球場の9割近くは公営です。なぜ野球が公共的なのか?野球場がないと誰が困るんだろう?この問いは、なかなか面白い。いろいろ調べていくとアテネオリンピックのときに建てられた野球場は、今はすっかり廃墟になっていたりする。つまり国や民族、時代状況によって公共性の価値基準は全然違うんです。
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