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公共 NEWS

歴史のない社会でどう「公共」を教えるか?與那覇潤インタビュー

教育図書「公共」教科書の監修者、與那覇潤さんのインタビュー記事をお届けします。與那覇潤さんは第1章「公共の扉」の冒頭、公共哲学、倫理の分野の監修をご担当いただきました。歴史学者としての活躍で知られる與那覇さんならではの視点から、「公共」という新科目が担う役割を語っていただきました。

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コロナ禍が示した「原発事故も忘れる社会」

「公共」は本来、「現代社会」の後継科目ですよね。しかし出来上がった教科書を拝見して、むしろ「歴史」を教える際の新しいモデルにもなっているのではないか、という印象を持ちました。

歴史教育というものは、過去から未来へと続く「一貫性」の感覚なしにはあり得ません。つまり古代からずっと続く人類の歩み、ないし日本史であれば日本人の歩みの中で自分たちが生まれて、今後ともその歩みを続けていくのだ、という前提がなければ、「昔の人たちがどうしたかなんて、知らんがな」ということになってしまう。

私は今、そうした歴史感覚自体が社会全体から急速に失われているように感じています。その危機感を「歴史のない社会が生まれている」とか、「歴史はもう終わった」といった言い方でしばしば表明している[1]ので、歴史学者からは大変嫌われておりますが(笑)。

そのことがよく分かるのは、目下のコロナ危機への日本人の対応です。2011年に東日本大震災と福島第一原発事故が起こりました。今日から数えて、わずか10年前の出来事ですよね。しかしその震災の教訓が、2020年からのコロナ危機ではまったく参照されず、活かされていない。それどころか「活かされないのは問題だ」と指摘する人すら、ほとんどいない状態です。

原発事故の教訓とは何だったか。第一に、「専門家の意見には耳を傾けるべきだが、しかしそれを過信してはいけない」ということです。事故の当初、テレビでコメントする原子力工学の学者たちは「原子炉の設計は極めて堅牢です。事故といっても覆っている建屋が吹き飛んだだけで、原子炉は損傷していませんから、安全です」と言っていた。しかしその後すぐ、原子炉自体も損傷する重大事故であることが判明しました。「専門家だからといって鵜呑みにしてはいけない。むしろ専門家であるからこそ、利害関係者の側面もあるかもしれない。少なくとも一度は疑った上で、自分の頭で考えなければいけない」。これが第一の教訓です。

第二の教訓は、原子炉が損壊し、放射能が漏れていると分かって大パニックが起きたときのことです。今度は先ほどの専門家の言とは逆の方向で、明らかに事態を誇張するデマが拡散されました。福島県全域で人はもう住めないとか、県産の農作物も口にしたら被曝する、沿海の魚も危険だ、などなど。そうしたデマが事故自体の被害よりも、はるかに大きな風評被害をもたらしてしまった。“ちょっと危険を誇張するくらい別にいい。それでみんな危機意識を持つのだから”といった考え方は、仮に善意だったとしても許してはならないというのが第二の教訓です。

未曽有の震災と原発事故を通じて学んだはずの、この二つの教訓を、私たちはコロナにまったく活かせていません。コロナの前にはまったく無名だった「専門家」がにわかに権威のようになり、「42万人が死ぬかもしれない」と発表するのを、疑わずに報道してしまう。それと相まって「とにかく危険性を強調して危機感を持たせればいいんだ」といった姿勢が広まり、日本に当てはまるかどうかをきちんと検証しないで、海外のネガティブニュースを拡散する人たちが現れる。10年前の記憶すら、私たちの社会にはもう残っていないかのようです。

震災後の10年で「歴史を生きる人」が消えた

これは、その10年前の震災の時とは違う状態です。福島原発の事故が起きた直後には、昭和の戦争を語る本として定番の『失敗の本質』がベストセラーになりました。つまり過酷事故に至った原発行政の失敗、さらに事故後の危機管理の失敗の両面で、それは「太平洋戦争の失敗を繰り返しているのではないか」という感覚が、多くの国民に自然と生まれた。だからこそ過去の体験に学ぼうとして、歴史の本がひも解かれたわけです。

その『失敗の本質』で一番有名なキーワードに、「戦力の逐次投入」があります。戦線の全体像を見渡して戦略を立て、退くべきところは退いて資源を集中するのではなく、とにかく「いま」問題になっているところに、ちょこちょことその場しのぎで追加の兵員を送り込むから、その都度個別に撃破される消耗戦になってしまう。

これは原発事故の処理と比べても、より一層コロナ対策に当てはまる教訓ですよね。「とりあえず1か月自粛してよ」「あ、それで感染者減るっぽいし、ちょい延長ね」「もう1回延長!」……と場当たり的に自粛が引き延ばされる一方、重症者が増えても問題なく受け入れられるような医療体制の整備は、ほとんど進まない。結果として前線の兵士のように、勝算が見えなくなった国民全体が疲弊していっています。

10年前ならまだ、私たちは歴史を思い出し 「いま、太平洋戦争と同じ過ちを犯している。失敗を繰り返してしまっている」という意識を持つことができました。しかしそうした状況が、もはやまったく存在しない。このことを指して私は「誰ももう、歴史を生きていない状態」と呼んでいるのです。

歴史教育から公共教育へ

こうした事態になってしまうと、歴史教育はどんどん効果がなくなっていくだろうなと感じます。私たちには10年前のことも実感がない。ましてや75年以上前の戦争なんてもっと実感がなく、完全に「他人事」でしかあり得ない。もはや生徒に「歴史意識を持たせる」という発想自体が、限界に来ているのではないでしょうか。

過去の史実を細かく知るというだけなら、それはよくも悪くもオタク趣味であって、歴史の「教育」ではないのです。授業で教わるかつての時代を生きた人びとと、いまを生きる自分たちとが「繋がっている」、「同じ道の上を歩いている」と感じられるからこそ、教育としての効果が上がるわけでしょう。そうした意識のないところで、いかに細かく第二次世界大戦の過程を話しても、「それで? 同じバトルものならアベンジャーズ・シリーズの方が面白かったっすね」としか感想が返ってこない。そうした未来が実現するのも、遠い先ではないように思います。

だとすれば、今後は「かつて歴史教育という形で伝えていた大切なこと」を、別の形でどう伝えるのかを考えなくてはいけません。そのヒントを今回、「公共」の教科書に関わって得ることができたかなと感じています。

私が関わったのは、教科書の第1章「公共の扉」のうち冒頭近くの部分です。公共哲学というか、昔の科目名でいうと「倫理」に近い内容と言えるでしょう。

「倫理」のカリキュラムは(私自身は履修した経験はないのですが)、基本的に歴史を前提としていた――思想史に近い形で、人類史上の様々な宗教や哲学を教えるものでしたよね。ソクラテスとプラトンを皮切りに西洋の思想が紹介され、途中でアジアに転ずると今度は孔子やブッダが……といった風に、「時代を順々に追ってゆく」スタイルで教えていく。ただ、これは前提となる歴史意識というもの自体が消えてしまうと、苦しくなる。

それに対して、この「公共」の教科書はそうではない。大昔に遡って「最初から」教え出すのではなく、むしろ今日の若者を主人公とするマンガが扉に掲載され、いま、生きていく上でこういうことに悩むよね、引っかかるよね、という問いかけからスタートします。たとえば「自由が大事というくせに、なんで親には従わなきゃいけないの?」とか、「お金だけが、あらゆるものと交換できるのはどうして?」など。

つまり教育の出発点を、全人類ないし日本人に共通する「起源」に置くのではなく(そんなものは、もう歴史意識のない社会では実感してもらえませんから)、生徒たちが生きている「いま」という地点に置いているわけです。

歴史がなくても人間は生きていくし、その日常を送る中で何らかの疑問に必ずぶつかります。その時に考えるヒントとして、あらかじめ知っているというよりも「振り返って参照する」対象として、ハンナ・アーレントやユルゲン・ハーバーマスといった思想家が見出される。そうした教え方を想定しているのが、この教科書の第1章の特徴です。あえて一度、歴史(思想史)を通時的にたどる語り口をリセットしてみる形で、「倫理」の内容を再構成しているとも言えますね。

よく考えると、そちらの方が自然な生き方なのかもしれない。古代から続く歴史を一通り知った上で、そのコースの上を歩きなさい、と伝えるよりも、まずは「単に生きてみればいい」んだよと。そこでいろんな悩みを抱えて、行き詰まったり、憤りを抱えたりする。過去の史実や思想的な蓄積というのは、そうなったときに初めて、考えるヒントとして見えてくるものだよと。

おそらくそうした方向へと、社会における「歴史」という存在は形を変えていくでしょう。この「公共」の教科書のあり方は、その反映でもあるように感じています。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の歴史教師

実は最近、村上春樹さんの新訳(2003年)でサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読みました。原著は1951年に米国で刊行され、日本では長らく『ライ麦畑でつかまえて』の邦題で親しまれてきた、青春文学の古典ですね。近年では、新海誠監督の『天気の子』(2019年)が作中の小道具として村上さんの訳本を登場させ、改めて話題になりました。

與那覇潤書店(ジュンク堂書店池袋本店)にて撮影

ストーリーを簡略に要約すれば、ある社会不適応の少年の「高校中退記」です。どの学校に入ってもなじめず、中退や転校を繰り返している男の子が、いまの学校(全寮制)もやめることになった。しかし実家にもなかなか帰りづらいので、街でお酒を飲んだり娼婦を買おうと試みたりしながら、だらだらと旅をする。そんな3日間を描いています。

そういう読み方をする人が他にいるのかはわかりませんが(笑)、読んでいて「うっ」と苦しくなったのは、この作品、冒頭に歴史の先生が出てくるんです。授業になじめない主人公はいくつも単位を落としているのだけど、うちひとつが歴史だった。で、その先生はけっこう真面目な人で、主人公を自宅に呼び出して「君、これからどうするんだ。大丈夫なのか」と相談に乗ってあげようとする。しかし当の主人公からはめっちゃウザがられて、むしろ使えない教師だと思われている(苦笑)。

少しネタバレになりますが、歴史の先生がテストに出したのは古代のエジプト史でした。これに主人公は「僕は古代エジプトについて、ミイラの製造法にしか興味を持てません。だからそのことだけを書きます」といった答案を出して、もちろん落とされる。ところが、ここだけ読むと主人公はふざけたクソガキにしか見えませんが、実は彼は小さな頃に博物館でミイラについての展示を見て、心惹かれた思い出を大事にしていたらしい事実が、作品の最後に分かってくるんです。

冒頭で描かれたのはまさに、先ほど現代日本の事例を見たような、歴史を教える人と、歴史を生きる気がない人のギャップだったわけです。つまり歴史の先生は、人類全体の歩みを踏まえて私たちがどう生きるべきか、どんな社会を作っていくべきかを考えるのは「当たり前だ」と、おそらくそういったスタンスで授業をしている。だから彼の目には、「大昔のエジプト人に興味なんか持てません。あ、でもミイラは結構好きっすよ」みたいな主人公は、問題児にしか見えてこない。

しかし、それではダメなんです。先生の側がその「当たり前」を脱して、そうか、ぶっちゃけ興味なんか持てんよなと。でも、こう考えてみたらどうだい、という風に、新しい形で過去の遺産と繋がる方法を示してほしかった。ひょっとすると、主人公だって内心ではそれを期待していたんじゃないか。そんな風にも読めるんです。まぁ作品全体の「前振り」に過ぎないシーンにそこまで感情移入するのは、私自身がかつて、そういう「使えない歴史教師」だったからなのかもしれませんけど(笑)。

今回の「公共」の教科書で、ナビゲーター的な役割を務めるマンガの主人公はリサという女の子ですが、彼女もちょっと『キャッチャー・イン・ザ・ライ』っぽいじゃないですか。しょっちゅうお母さんと喧嘩して、「なんでそんなルールが世の中にはあるんだよ、ウザいよ!」と理不尽に感じている。

だけどこの教科書では、そうした感情を否定するのではなく、 「この喧嘩の原因を深めてみると、どういう問題があるのでしょうか」問いかけ、むしろ出発点にする形で授業が進みます。その中で初めて、かつての思想家や歴史上の出来事に出会ってゆく。そういう風に、生徒と歴史の「出会い方」を再編していくことが今重要なんじゃないのかという気持ちが、私にもあるんですね。

教育図書「公共」教科書 P004より

民主主義を教えるための新しいルート

具体的な授業内容で考えますと、たとえば「公共」では、「民主主義とは何か」が必ず大きなテーマとなるでしょう。しかしいま、教壇に立つ世代と、その話を聞く世代とで、これほど前提が食い違っているトピックもありません。

「平成世代」といったとき、①平成期に青春を送り自分の価値観を形成した世代、と、②元号が平成になってから「生まれた世代」の2つの意味がありますね。いろいろなところで書いてきた[2]のですが、①の人びとは、民主主義がものすごく輝かしく見える体験をしているんです。たとえば私(1979年生)だと小学校高学年~中学校にかけて、東欧の民主化やソビエト連邦の崩壊、国内でも最初の非自民政権の成立を見ている。「民主主義とは人類が誇るすばらしい財産であり、そして世界も日本も、その深化に向けて歩みを進めている」といった歴史感覚が、個人差はあれインストールされているわけです。

しかし②の人たちに、同じことを自明視しろとは言えないでしょう。彼らが目にしてきたのは、「政権交代したらかえって大混乱だった・その後も民主主義では何も決められない」日本の政治であり、そして国民投票で決まった英国のブレグジット、米国のトランプ政権、さらには「まったく民主主義ではないまま超大国になった」中国の存在です。彼らに「バカもん! 民主主義を目指すべきなのは当たり前だ」といった教え方をするのでは、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の歴史教師と同じになってしまいます。

厳密に②の世代だったかは記憶が曖昧なのですが、2000年代の終盤に大学の授業で「二大政党制と多党制と、どちらがよいか」で議論をさせたんです。そのとき「いっぱい政党がある意味がわかんない。独裁で正しい意見を実行してくれればそれでいい」と発言する学生がいました。最初はウケ狙いで言っているのかな、と思いながら対応したのですが、話しているうちにどうも素でそう思っているらしいぞと、気づいて驚いたことがあります。たぶんいまはそうした、そもそもなんで民主主義がそんなに大事なんですか?という感覚は、もっと広がっているでしょう。

だから諦めよう、と言っているのではありません。 “そうか、今はそれが前提なんだ”という事実を踏まえた上で、そうした感覚を「出発点」にしながら、試行錯誤でさまざまな議論を経由しつつ、やっぱり民主主義って大事だよねというところに辿り着くためのルートを、新しい形で作っていかなくちゃいけないんです。

かつては歴史を学ぶことが、自ずとそうしたルートになっていました。世界史なら「マグナカルタ→アメリカ独立→フランス革命→ファシズム打倒→冷戦の勝利」、日本史なら「中世・近世の一揆→明治維新→憲法制定と議会開設→戦後の民主化」。過去の事項をそんな風に並べたときに、自然と「民主主義の発展こそが人類の進歩であり、使命だ」といった価値観が湧いたわけですが、みんなが歴史を生きなくなった今、それはもう機能しない。公共という科目は、そうした事態を手当てするためのものでなくてはならないと思います。

先生はライ麦畑の捕手であるべき!?

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のストーリーは、この点でも重要な示唆を含んでいます。多くの方がご存じのとおり、同書の奇妙なタイトルの由来は、ようやく実家に戻った主人公とその妹の会話から来ている。妹が、「ぶっちゃけ、お兄ちゃんはこの世の中のすべてが嫌で、なりたいものが何にもないから、学校もやめてばっかりなんでしょ」と皮肉る。それに対して主人公が、「そんなことはない。キャッチャー・イン・ザ・ライにだったら、なりたいと思ってる」と答えるわけですね。

ライ麦畑で子供たちが自由に遊んでいる、でも自由過ぎると崖から落ちてしまうかもしれない、その時に僕がキャッチして守ってあげる、そういう存在になら僕はなってもいいと。裏返せば、どんな学校に行ってもそういう教育をしてくれない、だからやめちゃうんだということでしょう。私にはこの挿話が、「歴史から公共へ」という今回のテーマとも、不思議とぴったり重なって見えるんですよ。

歴史教育ってしばしば、最初から「崖には近づくな!」として子供たちを威圧する、危険を未然に予防する教育になりがちだったと思うんですね。かつてこの道を行ったら独裁になりました・戦争になりました、だからそのルートはダメです、として、いろんな道にあらかじめ✖を付けておく。それこそ「効率的なら独裁で別にいいと思います」といった生徒が出てきたら、「なにを言ってるんだ! 昭和の戦争の授業を聞いてなかったのか!」みたいな。ある意味で使命感が強く、指導熱心だからこそ、そう教えてしまう側面はあったと思います。

でも、よかれ悪しかれ、それはもう機能しません。これからはそうではなくて、崖のそばまで来たっていいじゃないか。そこまでは生徒自身の意思で自由にさせてあげて、しかし決定的な破局(=崖から落ちる)には至らないように捕まえてあげる、そこから初めて生徒は考えるのではないか。そうした構えが、たとえば民主主義というテーマひとつとっても海外に「理想のモデル」が見つからず、それを勝ち取る「人類の歩み」といった歴史意識にも実感を持てない時代には、必要とされています。

教師が生徒に先んじて、 「この道は通行禁止。危険!近寄るな」といった看板を立ててしまう教え方から、まさに『キャッチャー・イン・ザ・ライ』的に崖のそばまで来てから思考することで、「なるほど。そういうことか」と生徒が納得するような社会科教育に切り変わるときが来ている。そのステップとして、公共という科目が始まってくれたらなと願っています。

〈了〉

 


【関連情報】

ジュンク堂書店池袋本店6階にて「與那覇潤書店」が開催中!

2021年3月6日から約半年間、ジュンク堂書店池袋本店の6階特設会場にて、與那覇潤さんが選んだ本を集めたポップアップ書店が開催中です。
與那覇店長自身による700点の選書を7つのセクションにわけて展示しています。
歴史に興味を持つまでの幼少期の読書体験から、歴史をご専門にされ、大学教員として読んだ本。病を得て、思うような読書が出来ないなか回復途中で読んだ本。東日本大震災を経て「歴史が無効になった後のヒント」になる本など、ご自身が選ばれた書籍に200枚近い、読みどころを紹介する手書きのポップがついています。


【関連記事】


「心が動かされる教科書を作りたい」公共教科書・経済分野執筆者による解説


この「公共」教科書ならできる!【眠くならない法分野の授業】


【対談】鈴木寛×佐渡島庸平「なぜ僕たちは公共の教科書を作ったのか?」

與那覇潤YONAHA JUN

1979年、神奈川県生まれ。歴史学者。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学者時代の専門は日本近現代史。地方公立大学准教授として教鞭をとった後、双極性障害にともなう重度のうつにより退職。2018年に自身の病気と離職の体験を綴った『知性は死なない 平成の鬱をこえて』が話題となる。著書に『中国化する日本』『日本人はなぜ存在するか』『歴史がおわるまえに』『荒れ野の六十年 東アジア世界の歴史地政学』ほか多数。2020年、『心を病んだらいけないの?うつ病社会の処方箋』(斎藤環と共著)で小林秀雄賞。

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