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公共 NEWS

「公共の授業で高校生に伝えたいこと」若手公民科教員3人が語る

いよいよ2022年4月より新しい学習指導要領によるカリキュラムが始まりました。公民科の新科目として設置された「公共」はどのような教育を目指していくのでしょうか。本企画では、教育図書の公共教科書および指導書を執筆いただいた若手の高校公民科教員3人を招いて、教育現場からの目線で「公共」のあり方、新しい教育として想定される課題、今後の公民科教育の目指す方向などについてお話を伺いました。

学校現場における「公共」の受け止められ方

学校によって「公共」をどう捉えるかさまざまだと思われますが、先生方の高校ではいかがでしょうか?

前田 まず今回の学習指導要領改訂の中では、高校社会科全体として見た時に、地理総合と歴史総合の注目度の方が高いという現状があります。地理は今まで選択だったものが必修になりました。歴史総合は日本史と世界史のミックスで、共通テストにも出題される科目なので、まずはこの2科目についての議論が先行していたように思います。一方で「公共」については、「現代社会と同じ2単位だし、その延長線上でいいよね」という空気があったのは事実ですね。

久枝 前田先生がおっしゃったように、注目度は低いのかなという実感がありますね。本校(大妻多摩高校)だと私一人が公民専任なものですから、そもそも議論する相手がいないんですよ。とはいえ授業内容を大きく変えていく必要があるわけで、それが各校の公民科の教員に課せられていくとなると、校外の教員との連携の中で、どういう取り組みをされているのかを共有していくことが、とても大事だと思いますね。

橋本 そうですね。今回、教科書の執筆に関わる中で、公共のあり方についてじっくり考える時間がありました。久枝先生や前田先生、執筆者の方々と問題意識を共有できたことはとても良かったです。注目度が低いというのはたしかにその通りだと思います。加えて、科目名が変わっただけ、平和主義が軽視されている、などネガティブな受け取られ方もされることがあります。しかし、実際に教科書作りに関わっている先生方はむろんそうではなくて、これまでの社会科教育が抱えていた課題を改善し、授業をより面白く展開できる教科書を作りたい、という強いモチベーションで教科書編集に取り組んでいました。執筆陣のそのような想いが伝わればよいなと思っています。

前田 私の勤務する松本秀峰中等教育学校も小規模校で、社会科の中で公民専門は私一人しかいません。なので、今回の指導書の執筆を通じて情報交換できたのは大変ありがたいと思っています。

今年度まで「現代社会」を必修で置いていた学校は割と「公共」への移行はスムーズにできるのかなと思いますが、政治経済と倫理の両方を必修にしていた学校は、週2時間しかない公共で何をやればいいのか苦心しているようです。下手をすると、政経と倫理を薄く引き延ばしたものが「公共」という受け止め方になってしまうので。ただ足して2で割っただけではないという位置付けをどうやって出していけるのか。実際に公共が始まった際の大きな課題になるのではないかと感じています。

教科書の詳しい情報はこちらから

講義型授業から対話型授業へ

既存の現代社会、政治経済、倫理と公共の大きな違いは、生徒が社会について主体的に考える対話型の授業を目指している点にあるかと思いますが、その点についてご意見をお聞かせください。

橋本 対話型の授業を充実させるために、まず生徒が対話したいと思える導入をきちんと用意することを普段から意識しています。たとえば、憲法問題について意見交換してほしいと思っても、生徒の日常生活においてそれについて話したいと思う場面ってほとんどないと思うんですね。そこで、今だったらコロナ禍の人権制約など現代的なテーマを学習課題として設定し、生徒が自然と考えたくなる授業構成を意識することがポイントになると思います。

もう一つは、生徒の意見を整理するための概念装置をうまく活用することです。学習指導要領では「見方・考え方」と言われています。生徒はわれわれの提示した「問い」に対して、思いつくままに意見をぶつけてきます。教科書で私が執筆した転売の問題を例にとれば、授業では転売を阻止する方法が生徒からいろいろ出てきます。それらを「Aさんの意見は効率性を重視する立場、Bさんの意見は公平性を重視する立場だね」と概念を使って議論を整理してあげると、生徒は自分が何気なく発した発言がどういうカテゴリーに分類されるのかを認識して、そこで初めて議論の全体像が見え始めると思うんですよ。これまでの講義型の授業では、覚えるべき事項として先に概念を教えていたのですが、対話型の授業では逆に後から概念を教えることで、より深い理解につなげられるのではないかと考えています。

そのため、対話型授業では教員の関わり方が今まで以上に大切です。教員の役割はおそらく三つあって、一つは説明すること。二つ目が、生徒の意見や発言を分かりやすく翻訳して、「A君がこんなことを言っているけど皆はどう思う?」と全体に返すということ。三つ目が、生徒の意見に対してもう一歩踏み込んだ発問を返し、議論をより深めるきっかけを与えることです。できるだけ、予定調和的な議論になることを避けたいと思っています。

教育図書「公共」教師用指導書より

先生のスキルもこれまでと違うものが求められるということでしょうか?

橋本 知識の伝え方を工夫する、つまり、今までは初めに全部教えてしまっていたことを議論の途中で小出しにしていく、ということだと思います。必ずしもまったく新しい授業準備が求められているということではなくて、情報の編集の仕方をもう少し工夫してあげることなのかなと思います。

前田 社会科の知識は、その気になればどんどん細かくマニアックになっていきますが、今回の公共というのはあえて思い切ってバッサリ切れるところは切ったうえで、どうやって見方・考え方という両輪で回していくかが求められている科目だと思うんですね。現代社会と大きく違う点がそこにあると思っています。しかし実際にそれを授業で実践していくうえで一番障壁になるのは、知識を多く持っていてそれを教えることが授業だと思っていた先生にとって、見方・考え方を生徒と一緒にディスカッションしながら作る授業が、イメージしにくいことかと思います。どうやってファシリテートしていけばいいのか、モデルをつかみにくいのが現状ではないのかと思います。

久枝 対話というのは、意見を一方的に発表したり、述べていったりするものではなくて、そこからさらに、相手の応答を受けて、反省・リフレクションがあって、自らの意見を深めていくところまでが対話だと思うんですね。今までの学校の教育は明らかに知識偏重型でした。また自分の考えを発表させる授業にしても、発表させて終わりでした。今後の公共ではおそらく自分が意見を発表して、相手の意見も聞いて、さらに自分の考えを深めていくというプロセスが必要になるでしょう。

しかしそうすると時間がどうしても足りません。また一方で、共通テストで求められる知識量は変わっていない。そうなると、その不足部分は生徒が自分で勉強していかなければならないという問題も起こり得るとは思います

いずれにしても先生が知識を教え込む教育ではなくて、先生も生徒も自ら学びにいく、情報を得にいくことが必要になるはずです。そして対話型授業はある程度、生徒に委ねていくことにもなるわけで、ファシリテーターとしての先生の役割が重視されていくと思っています。

 前田 私の実感として、生徒は同じクラスメイトがどういう意見を持っているのかというのはわりと気にしているんですね。なかなか聞く機会がないだけで、実はちょっと議論をさせてみたり、あるいは議論という形ではなくても紙に書いてもらったコメントをクラスで紹介したり、一旦全員で集めて「こういう意見があったよ」と共有するだけでも、そういう考え方をする人はいるんだという気づきが得られたりするんですよね。なので、よくある賛成・反対に分かれて討論してみようとか、皆からいっぱい発言が出る活発なディスカッションではなくても、コメントや感想を書いてもらうだけでも全然違うと思います。生徒の意見を吸い上げる方法って、デジタル端末が一人一台あるところであればなおさらですが、工夫次第でいろいろできると思います。必ずしもいわゆる上位校だから対話型授業がやりやすいということではないと思います。

先生は正解を持っている人ではない

橋本 公共の謳い文句として「知識偏重型教育からの脱却」という表現が見受けられますが、私は知識自体は軽視すべきでないと思っています。暗記を含む知識の蓄積は非常に大切で、そもそも知識がないと考えることができない。ではこれまでの社会科教育が知識偏重型と批判されるのはなぜかといえば、何のために学ぶのか、何が面白いのかわからないまま知識が詰め込まれていたからではないでしょうか。たとえば、基本的人権を順番に覚えていって、丸暗記した人権の名称を試験で書く、というように。そうではなくて、飲食店への営業自粛命令をめぐる訴訟で何が争点となっているのかを調べたり、それについて生徒同士で意見交換をしたりする過程で、経済活動の自由など基本的人権に関する知識が増えていく、という順番になるとよいですよね。

一方で、対話型の授業を展開する際に、必要な知識はインターネット等で調べられるから、生徒自身に任せればよい、という考え方には反対です。生徒が調べてくる情報の中には、信頼性の乏しいものも少なくありません。特に1年生、2年生の段階では、情報の質を判断できるようになるために、参考文献も含めて注意深く教員がチェックした方がよいと私は思います。

前田 私も橋本先生と同意見です。補足するならば、実は学習指導要領って、今回の公共に限らず多様な解釈ができるように書かれているんですね。さきほどの、基本的人権についても、「この要点・見方が大事ですよ」と書いてあるだけで、具体的に「基本的人権をこう教えなさい」という風に細かく指定されているわけではないと。

ところが、教科書会社の側が旧態依然な手法で、重要語句を太字にして、覚えるべき知識として並べてしまっている。先ほど橋本先生が「なぜ学ぶのか分からない知識の羅列」という言い方をされていましたけれど、そうなってしまう要因の一つに、教科書が新学習指導要領に対応できていないという問題もあるのではないでしょうか。

なので、私が今回公共教科書の指導書に携わらせていただいた一つのモチベーションとして、せっかく新しい教科書を作るからには、そこを何とかしたいという思いがありました。今までの太字を覚えるような試験勉強や知識の詰め込みではなく、使っていくための知識にアップデートしていくためのチャレンジだったと考えています。

橋本 前田先生に指導書でご担当いただいた「ジョブ型・メンバーシップ型」の労働分野のページで、それはどのような形で反映されていますか。

前田 そうですね、これまでの労働分野についての教え方だと「日本型雇用の特徴は三つあります。『終身雇用・年功序列型賃金・企業別労働組合』この太字を覚えなさい」という感じだったと思います。もちろん、その背景も含めて社会科の先生は解説してきたと思います。しかし、いざ試験になると「終身雇用」という言葉を書ける生徒が正解というところに限界があったと思います。今回の教科書では「テーマ学習」と呼んでいますが、そこで「ジョブ型とメンバーシップはどう違うのか?」「ジョブ型を進めていくにはどういう障壁や課題があるのか?」という風に問いを立てています。テーマ学習を通じて自分事として労働を考えていく中で、今まで頭の中を意味が通り過ぎていった「終身雇用」という言葉について自然と深められていく構成になったと思っています。

橋本 私も授業の中で、ジョブ型・メンバーシップ型の話は高校1年生にしてみたことがあります。単純に「皆だったらどっちがいい?」と質問すると、自分の立場に置き換えて、安定しているからメンバーシップ型がいいとか無邪気に話すんです。面白いと思ったのが、「女性にとってはどうなんだろう?」とか「高齢者にとってはどうなんだろう?」とか、視点を意図的にずらして、普段考えないような立場に立って、改めてメリット・デメリットを考えさせると、そこで生徒もはっとするんですね。自分以外にも異なる他者がいて、その他者の立場に立った時にその人たちはどう思うんだろう、たとえば障がい者の人たちに、多様なジョブローテーションをさせるメンバーシップ型が望ましいのかどうか?これは簡単に答えが出せる問いではありません。このように視点をずらしたり、他者の視点を入れたりする問いかけを教員がきちんとできるかどうか。教育図書の公共の教科書の指導書はいろんなテーマ学習についてこの立場、あの立場で考えてみようというのが盛り込まれているのでそこがわりと面白い構成になっているんじゃないかなと思っています。

久枝 そうですね。「立場を変えて」というのは、先ほどした対話型授業の話も含めて、とても大事なことだなと思っています。この前、教科書の総監修を務めていらっしゃる鈴木寛先生とお話しする機会がありました。その時に「これから私たちの世界がどうなっていくのか、教員として私自身も答えがわからないことがある。生徒の問いに全部答えて、これだけが正解だと教えることはできない。どうやったら生徒を惹きつけられる授業ができるでしょうか。」という趣旨のご相談をしたところ、鈴木寛先生の答えが「教員もわからないことは、わからないと生徒に素直に言っちゃった方がいいんじゃないの。そこから一緒に考えるという教員の役割が生まれると思いますよ。」とおっしゃられていて、なるほどと腑に落ちました。先ほどの橋本先生の話にあったとおり、知識の量は、考え方とか表現に深みを与えていくのでそれは当然重要なんですが、だからといって教員が「これからの将来を考える際の正解を持っている人」になってはいけないとも思っています。そういう意味では、公共や対話型授業って実は若手の先生が活躍する素地が十分にある分野だと思うんです。「先生、これ正解はなんですか?」「知らない。わからない。でも今習ったこの知識を使うと、こういう風に考えることもできるよね。立場を変えるとこういうことも言えるんじゃないの。僕はこう思う。君はどう思う?」という対話に参加するプレイヤーとしての教員の姿というのもありえると思っています。ファシリテーターであると同時に、教員もプレイヤーになれる。それがとても面白いかもしれない。

教育図書「公共」教師用指導書より

どのように生徒を評価するか?

橋本 正解は一つではなく、いろんな考え方があっていいという考え方にまったく同感です。ただし、そうなった時に生徒の対話におけるパフォーマンスや成果をどう捉えるのか、つまりどう評価するのかという問題があります。教育図書の公共教科書に掲載しているようなオープンエンド型のテーマ学習というのは、一問一答ではない評価の仕方が望ましいと考えていますが、とても難しく感じています。いろんな意見があっていいよと言いながら、何となく誘導的に教員の考えに導かせてしまうということもある。それが残存していると、生徒も勘が鋭いので「結局先生の考えに寄せてもらいたいんでしょ」と感じてしまう。このような展開に陥ると、せっかくの対話が停滞してしまう。

対話や議論の評価をどうしたら公正にできるか。先生方はどうされていますか。

久枝 それは超難問ですよね。学力の三要素といわれる「知識及び技能」「思考力・判断力・表現力等」「主体的に学習に取り組む態度」で評価しなければいけないことになるんですけど、知識・技能はペーパーテストで測る方が現場の教員としては楽ですよね。思考力・判断力・表現力については、難しいとはいえ、測れないことはない。たとえば「別の視点も持ち合わせたうえで意見を述べている」「反対意見があることも承知しているけれど、論理的に考えてこう思う」というような発表やレポートは深い思考だといえます。反対に思考の変化がなく、他者の視点を伴わない一方的な意見は浅い、というように、難しいですが評価はできなくはないと思います。本校でも、ルーブリックやシラバスの作成を模索しながら、生徒に何が評価されるのか、客観的に示しつつ、「指導と評価の一体化」を進めています。問題は、最後の「主体的に学習に取り組む態度」ですよね。これはいろんなセミナーに参加したり、本を読んだりしていますが、確信を得られるところにはまだ至っていません。ただ、「メタ認知力」がカギとなる概念ではないでしょうか。つまり、「学習を経て、自分自身の変化を、自分自身でどう捉えているか。」「自分の変化や成長を自分で認識できているのか。」ということを、評価基準に取り入れるということが重要だと思っています。特に私立校であれば、教育理念や卒業認定方針などと照らし合わせながら、キーコンピテンシーとして、どのような能力や態度をもった生徒を育てていきたいのか、生徒に示しておくことも重要ですね。

前田 評価の問題は、すべての教員が抱えている悩みと言っても過言ではないと思います。現実問題として、1クラス30~40人の生徒を相手にして、それを何クラスも担当するとなると、のべ人数で数百人、全員の変化をもれなく一人の教員が把握するのは無理です。そうなると教員が過労死しない程度の負担で、知識以外の部分を測るとなった時に、暫定的ですけど「複数の視点を比較検討できているかどうか」という点に絞ってしまっても良いと思うんですね。たとえば先ほどのジョブ型の例で言うと、「自分は安定がいいからメンバーシップ型が好き」というのが出発点だとする。そこからスタートして、単元が終わった後のレポートもそれでは困るわけですよね。結果的に自分はやっぱりメンバーシップ型がいいという結論でも構わないんですけど、その間にメンバーシップ型で困る人の立場への言及だったり、社会の中にいる別の立場の人にも目を向けたかどうか、という「複数の視点」を評価の基準とする。おそらくその辺りが現実的なのかなと思います。

それから久枝先生のお話にあった通り、最近のトレンドだと思うんですけど、自己評価を教員評価とセットにして考えるという方法も重視されてきています。この単元を学んで自分はどういう視点を身につけたか?について自分で表現して文章で書かせたりする、というものですね。これ、私も頑張ってチャレンジはするんですけれどもやっぱり難しい。なかなか自分の学びを一段高いところからメタ認知して見るというのは継続的にやっていかないと難しい。公共で週2時間だけ「はい頑張ってやりましょう」というだけではなく学校全体で取り組まないといけないと思います。

ただ、お話を聞く中で、公共はもしかすると自己評価がやりやすい科目かもしれないとも思いました。いろんな人の視点を獲得して、自分が素朴に捉えていた社会のイメージがどのようにアップデートしたかは比較的表現しやすい。教員評価と上手く組み合わせていければ公共の一つの理想に近づくのかなというのが今のところの私の感想です。

大学入試と公共の授業

橋本 センター試験が終わって、共通テストが始まりました。今はまだ現代社会ですけれども変わった部分はあると思うんです。今後、公共に変わっていくなかで共通テストの出題のあり方をどう考えていますか?

久枝 さっきの評価の話とも関わるんですが、共通テストで「意欲」は読み取れないですよね。「知識」の部分はこれからも重要視されると思います。もう一つは「技能」の部分ですね。特に共通テストでは、資料の読み取りなど情報を読み取り、整理する技能が重視されているように感じます。グラフとか表の読み取り、その読み取りのスピードと正確性を測るような設問が共通テストでは増えています。果たしてこれでいいのかという疑問はあります。われわれが目指したい公共の学びと、大人数を一斉に評価する共通テストの相性はどうしても悪いし、やむを得ないのかなとも思うんですよ。そのように考えると、おそらく公共の目線でいえば「総合型選抜」や、かつての「AO入試」みたいなものが理想的かと思います。そういう入試で口頭諮問的なことが行われていく中で、公共で身につけた学力が発揮されてほしいなと思いますね。実際に現場の進路指導部では、総合型選抜への対応を重視される傾向が強まっています。

前田 私の感覚ですが、社会科で扱うことに関心を持っている生徒って実は多いんですよ。多いんですけど、その関心を授業で育てる、すくい取ることはできても、それが最終的なアウトプットに接続していないというのが一番大きな課題だと思っています。たとえば、今ウクライナにロシアが侵攻して紛争が起こっています。あれはいったい何なのか?と知りたい生徒はすごく多いんですよね。テレビで見たりネットで調べたり本を読んだりしている生徒も多いです。それってすごく大事な姿勢じゃないですか。この世界で何が起こっているのか知りたいという意欲です。けれども、その意欲や姿勢を択一試験で評価することはできません。だから結局、社会や世界で起こっていることに好奇心を向けても、今の試験というアウトプットまで繋げられないという問題がある。そこをすくい取ろうとするのならば、自己評価のような形で自分でポートフォリオのようなものを作って変化を見る、というような形かもしれないですし、あるいはどうしても選抜のような形でそれを問うならば、小論文だったり面接という、ある程度質的に評価するというような形しかない。そういう意味では、実は今、公共で目指していく新しい学びの形というのは、どちらかというと現代文とか小論文だとか、そういう科目と相性がいいような気がしています。

久枝 社会科の教員って、暗記が得意な生徒を特別高く評価したいわけではないと思うんですよ。自分で調べてきて物知りだなっていう子も素晴らしいですが、興味があって「これは何ですか?私はこう思うけど先生はどう思いますか?」と問いかけてくる生徒のことも、一般的に教員は高い評価をするように感じると思います。そういう意味では、総合型選抜であるとか、小論文であるとか、口頭諮問であるとか、いろんな形の大学入試があるのは、そういう生徒にとって有利ですし、大事なことだと思います。「この問題についてどう思いますか?この視点と、この条件を踏まえて答えてください」と問われたときに、答えることができると「あ、今知識が使われている、活用できているんだ」と実感を持つことができる。単なる評価だけではなく成長の機会にもなると思います。学校の規模や先生の手間を無視してあえて言いますけれど、望ましいのはゼミ形式で生徒一人一人と話して、「なるほど、君はそんな風に考えているんだね。」とコミュニケーションを取りながら評価する手法が多分、公共では理想なんだろうなと思います。

橋本 意欲や態度を測る際の手法ですが、たとえば英語の先生が授業中の発言回数を成績に反映させて積極性を見たりしています。社会科であれば、たとえば授業で扱った内容に関連する書籍や資料を読んで感想をつけて提出したら、一冊読むごとに何点加点というような方法も考えられるかと思うのですが、どうお考えですか。

前田  定量的に評価しないといけないのならば致し方ないと思います。正直、変だなと思いますよ。思いますけど、そういうことをやっている先生を責める気は私はまったくないですし、そもそもなぜ意欲や態度を測らなければいけないのかというところをむしろわれわれは考えるべきだと思いますね。

公共は他教科と連携できる

橋本 私が悩んでいるのが、社会科の考え方や知識を学ぶことと、論理的な表現力の関係ですね。つまるところ、レポートやプレゼンで、筋の通っていない文章や日本語に結構出会うわけです。そのすべてを訂正していくと、もはやそれは国語の授業に近くなってしまう。けれども、論述を課す以上、ある程度そこを見なければいけない。社会科における国語力の養成をどこまで社会科の教員が担うべきなんだろうというのが一つ感じているところです。

久枝 声を大にして言いたいのは、そもそも社会を思考する上で、論理的に表現できるようにしなければならない、という責務がわれわれにはあります。そもそも「表現」を国語科に任せていること自体が本質からずれていると思います。生徒が文章を書いてきて、主語と述語がねじれているとか、突然に体言止めが始まるとか、それを修正するのは、思考・判断・表現を重要視している教科である以上、われわれの責務だと思いますし、国語科とここで分けましょうねという話ではないと思います。どの科目でも表現する機会があって、数学には数学の表現が、英語には英語の表現が、国語には国語の、社会には社会の表現がある。それなのに「表現や小論文の書き方は国語の先生に習ってね」というのはズルだと思いますね、個人的には。

前田  たとえば今回の学習指導要領改訂で、国語も「論理国語」と「文学国語」に分かれました。国語で契約書の見方なんてやるのかと批判的に捉えられてきた側面もあると思うんですけれども、一方で公共を担当する側からすると、国語と接続するチャンスでもあると思うんですよね。書き方とか論理的な文章の組み立て方に注目する論理国語と、社会科・公民科の先生が授業でタイアップしたっていいと思います。教育図書NEWSの記事で、公民の先生と家庭科の先生がコラボした授業実践例がありました。金融教育が家庭科でクローズアップされるようになり、家庭科の先生がそこは得意ではないのであれば公民科の先生が家庭科の授業に入ったりということがあってもいいですよね。そんな風に科目を横断して繋がって広がっていけばいいと思います。実は公共はその要になれるチャンスがあるんじゃないかなと元々思っていたんです。

橋本 科目間の連携で言うと、数学との連携に関心を持っています。公民科目でレポートの作成や発表をする際に、自分の主張を裏付ける根拠としてデータやグラフの使い方はとても大事になると思うんですよ。その時に、数学で学習する「相関係数」などの統計的な概念は、公民科で大いに活躍する機会があります。しかし、活用の仕方が分からないと、「一体これは何に使えるんだ」となって、生徒の記憶から消えていってしまう。これは非常にもったいないなと感じています。今、データ分析はホットなテーマなので、社会と数学の接点が増えてもよいのかなと思います。

1つの授業に先生が2人!〈家庭科×公民科〉コラボ授業レポート

見方・考え方と生徒の多様性

橋本 生徒と接していて感じるのが、「自己責任」という考え方とどうわれわれが向き合えばいいのかというものです。たとえばホームレス問題を扱う時に、生徒の中には「ホームレスになるというのはいわゆる自己責任であって社会的に解決すべき問題とは言えないんじゃないか」と考える生徒もいます。これは極端な例ですが、社会保障やさまざまな社会課題を扱う際に想定しておいた方がよい視点です。自己責任だと言われた時に教員側がそれをどう返していくのか。個人的な問題だと思っていることが、実は社会的な課題になり得るということを、どのように伝えてゆけばよいか。

前田 難しいですよ。確かに身につけてほしい見方・考え方というのはあるんですけれども、こういう風に社会を見ろという強制はできない。もちろんいくつかアプローチはできると思います。たとえば自己責任に関していうならば、一つはロールズの「無知のヴェール」という概念を紹介するという方法。それでダメならば二つ目はロールプレイみたいな形でいろんな役割を半強制的に振ってしまう方法です。ロールプレイが割と効くことが多いと感じています。ただし、いろいろやったうえでなお自己責任だと考える生徒を叱りつけるのは違うでしょう。重要なのは、そのプロセスの中で他者の立場からも社会を見られるようになる、その重要性を認識させることにあると思うんです。

これと関連して、教員の側も学校にはいろんな立場の生徒の中にいるということを忘れてしまいがちになり、無自覚に話してしまって、あっとなることがあるかと思います。たとえば18歳選挙権って公共の中ですごく重要なテーマですけれども、クラスの中でディスカッションをしようという時に、「外国籍だから私は選挙権がありません」という生徒がいた場合にそれでもなおディスカッションするべきでしょうか。その生徒はどうやって授業に参加したことにすればいいのか。あるいは教科書にも掲載されている中学生の給食費問題、子どもの貧困問題を考えましょうという時に、給食ってすごくリアリティがある問題だと思うんですが、じゃあ給食費を払えなかった過去がある生徒がいたらどうするか。リアリティのある社会問題を考える時に、そのリアリティのある問題に対していろんな立場の生徒がいるということを教員の側もイメージしていないと、ディスカッションが上手く回らなくなってしまうということがあると思います。教員の側もいろんな立場の生徒がそもそも目の前にいるということに自覚的であらねばいけないなと思います。

橋本 今の前田先生のお話はすごくクリティカルで、私も「やっちゃったな」という経験はたしかにあります。そういう意味では、議論が盛り上がっている時こそ、むしろ教員の側は冷静に状況を俯瞰しなければいけないですね。事前の準備として、あらかじめ生徒の意見を聞いておいて状況を把握するという準備は、生徒が自分の思考を整理する上でも効果がありますし、われわれが目を向ける上でも有効かもしれないと思いました。

教育図書「公共」教科書より

教室の外にある多様性

橋本 当事者を意識する、多様な他者に目を向けるというところで、学校の外に接点を持つということも重要です。いわゆる社会見学ですね。久枝先生は授業でイスラムのモスクに見学に行ったそうですが、どんなきっかけで、どんな取り組みをされたのですか。

久枝 本校には国際教育部という部署がありまして、世界の半分はイスラム系なんだからイスラムの世界を知ってみよう、という考えのもと、生徒をモスクに連れていくという企画をやってみました。イスラム教の世界を知ろうという大目標はあるんですけれども、実際に現場に行って、モスクに入ると匂いが違うわけですよね。連れて行った生徒を見ていると、多様性を知るという意味で、身体的な肌感覚は重要だと思いました。現場ならではのエピソードをお話すると、先方の案内人が「イスラム教徒って『人類みんな兄弟』なんだ」と話し、外国人と握手したりハグしたりするんですが、その一方で女性には一切触れない。生徒はそこで「ん?」という顔をしたりするんですよ。もちろん一場面を垣間見ただけですから、それだけで文化理解をしたという気になってはいけないのですが、違和感を感じることこそが実は多様性を知るということです。多様性を知ることは実は決してポジティブなことだけではない。それでもなお、世界には自分と違う人間がいて、違う考え方があって、それを肌で感じるということは非常に大事な機会だと思います。公共の授業でも「多文化共生」という概念が出てきて、これはとても大事な概念なんですが、実践するのはとても難しいことだということを体験の中で学ぶ良い機会になっていると思います。

橋本 大変興味深いお話です。教室の中ではなかなか感じることのできない「違和感」に触れる良い機会になっていますね。

久枝 加えて言うと、多様性=分かり合うことが大事だよねというのがお題目になっていて、生徒もそれを前提にしてしまっているところがあるんですよね。価値観の多様性に触れている生徒のレポートや論文のほとんどは、「価値観は多様であるということが大事」という結論になっている。じゃあ、多様な価値観でどうしても相容れないよねという衝突が起きた時に、それをどう解決するのかという問題、これこそがおそらく公共がやらなきゃいけないテーマだと思います。分かり合えない多様性ということを前提にして、その紛争を解決するために憲法や法が機能しているというように。

前田 公共は最初「公共の扉」という単元からスタートしますよね。要は、公共を作る私たちという話で、まずいろんな価値観を持つ生身の人間が複数いて、その人たちの集まりで社会はできているんだよ、という至極当たり前のことから始まります。当たり前のことですけど、今まで中学の公民とか高校の現代社会って、いきなり「はい、社会や人権がありますよ」というところからスタートしていた気がするんですよ。なので、教科書通りに授業を進めると、いきなりホッブズやルソーが何の前触れもなしに出てきたりとか、いきなり日本国憲法の構造を覚えましょう、という唐突な感じがあったかと思うんです。ところが、今回の公共は、そもそも社会ってどういう人たちが作っているのかという点についてきちんと問うところから入っている。先ほどの久枝先生が話された多様性についても、公共の扉でバンと打ち出して考える契機を作ることで、なぜこの科目を学ぶのかという意味付けにもなり、その後の経済や政治の授業にも繋げていけるのではないかと思いました。

橋本 公共の扉」については教育図書の教科書を例にすると、はじめに功利主義と義務論の考え方があって、その後に水俣病、地球温暖化問題、医療費負担の話題があり、生徒会の予算の分配問題というように配置されていますけれど、必ずしも順番にやらなくてもいいのかなという風に思っています。たとえば、生徒会予算の分配の問題というのは予備知識なく入れる話になっていると思います。まずここから入って、射程を広げていくとか柔軟に順番を入れ替えてもいいのかなと思います。

 

前田 実際公共を担当する多くの先生が、あそこの導入で一番苦労されると思いますね。特に公民専門でない先生は、何となく日本国憲法について教えられても、たとえばロールズやハーバーマスが出てきた時に、なぜここに配置されてるのかというところを汲み取った上で、憲法学習に繋げていくあたりが一番難しいと思います。なので、最初の数年はそこをどうやって導入するかという蓄積がすごく大事になってくると思います。

久枝 今日、3人でお話する機会をもらって、改めて公共は多様な可能性がある科目だと思いました。やれることはいっぱいある。今までの社会科をアップデートできる、さまざまな可能性についてお話ができたかと思います。教員と生徒が一緒にと考えていく科目、そういう魅力を持った科目にこれからわれわれ教員が育てていければと思います。

〈了〉

取材・構成/篠宮祐介(教育図書編集部)

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橋本想吾慶應義塾高等学校社会科教諭

(はしもとそうご)早稲田大学大学院経済学研究科修士課程修了。2016年に筑波大学附属駒場中・高等学校にて非常勤講師。2017年に早稲田大学高等学院・早稲田大学本庄高等学院にて非常勤講師。2018年より現職。

前田圭介松本秀峰中等教育学校社会科教諭

(まえだ・けいすけ)東京大学大学院教育学研究科 比較教育社会学コース修士課程修了)。早稲田大学高等学院や早稲田大学本庄高等学院、栄光学園中学高等学校などで公民科講師として勤務後、2021年より現職。少人数制探究型学習塾「知窓学舎」の運営にも関わる。

久枝昂弘大妻多摩中学高等学校社会科教諭

(ひさえだ・あきひろ)早稲田大学大学院教育学研究科社会科教育専攻 修士課程修了。損害保険ジャパン日本興亜株式会社(現・損害保険ジャパン株式会社)を退社後、早稲田大学本庄高等学院にて非常勤講師として勤務。2020年より現職。

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